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りぃ、りぃ、と、夏虫の声が聞こえる。 鳴いているのは、人の手が細部までに行き渡った広い庭である。砂の模様まで計算しつくした、それでいて自然との調和が見事に見て取れるこの庭園は、先の見えない暗闇に染まりながらも煙る月夜に照らされ静かに美しい。 静かな夜だった。 静かな夜に、不意に虫の音が途絶える。 それを不審と思うものはいない。いたとしても、思った瞬間に陰は庭を通り抜けている。 陰は音もなく屋根に飛び乗り、天井裏に入り込む。塵の積もった梁の上を慎重に歩いて下の気配を探る。目的の人物が一人であることを確信すると、天井の板をそっと外し、その隙間からするりと落ちた。 とん、と、畳に落ちる、そのとき初めて小太郎は耳に聞こえる音を立てたことになる。 その音を心地よく耳にしながら、政宗は目を細める。刀を強く掴んでいた手を緩めて、そうして不法の侵入者に屈託なく笑いかける。 「意外と早かったな」 今日、この時間にこの場所へ来るという約束も前触れも無かったが、政宗の姿は冷静なものだ。興味深げな視線さえ投げかけてきたが、小太郎はそれには表向き何の反応もみせずに無言で書状を差し出す。 想像通り、中身は北条と伊達の同盟を望むものだった。 豊臣の小田原攻めが公然となった今は、北条と同じく豊臣の成長を快く思っておらず、同時に豊臣に対抗できる兵力を持つ伊達の力を欲するのは自然な成り行きとも見える。 几帳面な文体の裏を読みながら、政宗は視線を上げた。目の前には北条が雇った忍が、風魔小太郎が無言で膝をつき控えている。こういう時政宗が知っている忍ならば、書状の補足を主に教えられたとおり政宗に伝えたり、読み終えた頃を見計らって決断を迫るものだったが(武田の忍びなんかは用事もないのに話しかけてくる)、小太郎は口を閉じているばかりで何かを喋ろうとする意思が全く感じられない。やはり、間忍より戦忍としての腕を買われて北条に雇われたのだろうと政宗は当たりをつける。 ついで、と言わんばかりの口調を装って聞いてみた。 「お前、北条のジジイの前でも喋んねえの?」 「…………」 当たり前のように返事は来ない。 使いとしては二流以下の忍だったが、わかっていてこの男を使えと注文をつけたのは政宗自身である。 ここ最近で北条から忍が来たのは、小太郎で二度目だ。一度目に訪ねてきた男は、政宗が顔も知らない相手に国の大事を話せるかと文字通り蹴って帰した。一見正論だが単なるイジメである。簡単に伊達の力を使わせてなるかという思いもあったが、さて、次に遣されたこの男はどこまで事情を知っているのだろう。ひた、と視線を定めて顔色を伺うが、いっそ憎らしいほどに小太郎の顔に変化は見つからなかった。 浅く俯き、おそらく政宗の言葉を待っている彼の顔は人形のように無表情で、兜で目を隠しているとまであっては何を考えているのかわかりようがない。 だが、政宗は小太郎の考えることを知りたかった。 声を聞けるなら聞きたいと思った。 そのために策を寝るのは、考えるだけで楽しい。彼が自ら口を開くまで根気よく待つのもいい。鳴かないからといって殺すのは些か勿体ないから、今はやめておく。要するに政宗は小太郎のことを気に入っているのである。面倒な諸事は、どうせなら好きな人間とやった方が面白いことに違いはない。 政宗が墨を走らせしたためた北条への書状、受け取るべく伸ばされた小太郎の手をひょういと避けて政宗はにやりと笑った。声に出さないだけで、意外と感情が豊かな男かもしれない。子供のような悪戯に、顔の半ばを隠した彼の、数少ない感情を伺える場所である口元が僅かに歪む。 頓着することなくそのまま空を切った小太郎の手をふらふらと躱し、顔ががら空きになったところを見計らってゆっくりと手首をしならせると、敵意も素早さも無い政宗の手はぺし、と軽い音を立てて小太郎の額に書状を押し付ける。傍目にも憮然と、不機嫌そうに小太郎が書状を受け取ると彼の目の前には悪戯に成功した悪ガキの様な満面の笑みで奥州の主が笑っている。 機嫌のいい声が発する言葉の意味は小太郎には全くわからなかったが、それすらこの殿様には面白くて仕方がないのだろう。きつく細められた左の目元が意外に柔らかかったのが、小太郎には不思議だった。 「Let's do happily?」 傾斜を真直ぐに駆け下り、木から木へと飛び移り、つむじ風のように小太郎は伊達領を走りぬける。森を抜ける際に一度だけ後ろを振り向いたが、既に奥州の主が住まう城を遠目にも見ることは出来なかった。 走る足を止めないまま、小太郎はここから小田原にたどり着くまでの時間を計算している。その懐には書状が一通。これを氏政の元へ届けるまでが今回の仕事だ。蝋で封をされた書状の中身を知ることはできないし、興味をそそられる物でもなかったが、計算が終わり、書状の存在を思い出すと同時に小太郎はこれを書いた男の顔を思い浮かべる。 他国の忍びを前にしても不快な表情一つ見せず、刀も脇に退け友を前にしたような笑みを浮かべるような男だった。初めて会ったときも最後にはそんな顔をしていたような気がする。 そう思い出しながら次の木へ身を移す、その瞬間に、しかし彼は政宗のことを忘れてしまっている。 ただの雇われものである小太郎には、全く関係のないことだからだ。 次に思い出すのは、また雇い主が忌々しげに吐き捨てるその名を拾う時だろう。 小太郎が森を通り抜け、人の気配が途絶えると、波が返すようにまた夏虫が騒ぎ始める。 涼しい夜風が繁った緑をざわりと揺らす、黒々と静かな夜だった。
不如帰 06.7/24
小太郎は人の顔より動物の顔の見分けの方が得意だと思います なんつーか未だに書き慣れない(言い訳見苦しい)