戦場の空は途中頃から幾重もの雲に覆われ、やがて土砂降りの雨となった。
焼けた大地に降りしぶく雨が冷たい。灰色に広がる戦場には汚れた旗差物が散乱し、人馬の死体が折り重なって倒れている。
主人を失った放れ駒がいたずらに駆けまわっている姿が哀れだった。

流れる水は赤い。

赤い水を跳ねさせて、小太郎が戦場を歩いている。
雨に濡れる身体はそのままに、死体の山を足で避けながら、黙々と。
矢に刺され、槍で突かれ、刀で斬り伏せられた死体の山。
しかしその中に、小太郎が探す人物の姿は見つからない。足元に転がる人間だったモノ、顔を確認するたび安堵すると同時に不安になる。探しているのにどこにもいない。焦りばかりが募っていく。

生きているのか死んでいるのか。
それすらも未だわからない。

どこか遠くから誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。小太郎の知らない人間の名だ。物言わぬ死人ばかりが山と積まれたこの場所に、生人の声は怖ろしい程そぐわない。
足元では死に損なった屍骸が痛みに足掻いてうめき声を上げている。それすらも雨音に紛れてほとんど聞こえない。それでも声を出さずにはいられないのかもしれなかった。
誰かの名を呼ぶ悲痛な叫び声、生にしがみついた怨嗟の恨み声。自分も言葉を吐き出すことが出来れば少しは楽になれるのだろうか。
喉元に手をやって小太郎はすうと息を吸った。酷く渇いていて声が出ない。
どれだけ潤っていても声を出すことが出来ないくせに。

(ま、さ、むね)

青い陣羽織を羽織った人間が倒れている度、それが彼でないことに酷く安心する。彼がどこにもいないことに酷く不安になる。
彼は、あの人は今どこにいるのだろう。気になって仕方がない。
雨は時間がたつごとに酷くなるばかりで、止む気配は全くない。


お前に俺の名をやるよ


口元を吊り上げ、目を細めて。形だけは笑みをかたどっている癖、冴え冴えと冷たい目で戦場を見下ろしていた。それでもこちらを振り向いたときだけはきつい目許を和ませて、自分が触れることを許してくれた。
あの低い声でゆっくりと名前を呼びながら、無防備に肩をすくめながら、くすぐったそうに。
彼は笑ってくれたのだ。



(まさむね)



お前に俺の名をやる
だから、俺のことは名前で呼べ


ぼやけた雨の中、濡れた身体を引きずるように小太郎は戦場を歩いていく。
上から見下ろした尊大な口調、しかしその言葉が受け入れられないことは彼自身もきっと知っていた。
小太郎は言葉を話さない。口を開いてもそれは息をするためで言葉を必要としないから、言葉の価値に重きを置かない。だから名前も覚えない。すぐに忘れてしまう。
なのに名を呼べと彼は言う。
無理強いはしなかった。ただ小太郎が首を横に振るたび無事な左目を細めて、拗ねた振りをするくらいで。小太郎の名を親しく呼びかけながら。




お前は特別




特徴的な青い陣羽織。黒塗りの篭手。零れ落ちた兜。鞘から抜かれた日本刀。似たようなものなら幾らでもあった。
盛大な水飛沫を上げながら、足早に歩く。走り出す。
名前も知らない紛い物には用も興味もない。雨に冷えた足を振り上げて、邪魔な障害物を蹴りどかす。
早く見つけなければ、せっかく覚えた彼の肌の温もりも脈の鼓動も全て忘れてしまいそうで嫌だった。





(まさむね)





灰色に広がる戦場跡、降りしぶく雨に邪魔されて視界は暗い。
側にあるのは物言わぬ死体ばかりで、昨日の夜に重ねた記憶はまるで泡沫のように頼りない。
大声を上げて彼の名を叫びたかったが、小太郎は話し方を忘れてしまっているので叫びようがない。黙って灰色の空を見上げると、開いた口に雨水が流れ込んでいく。
どうしようもなく喉が渇いていた。
どれだけ潤っていても声を出すことが出来ないくせに。










(会いたい)










伊達政宗は、一人で雨に打たれていた。

うつ伏せに倒れて泥に半身を埋めながらも、とうに用済みの刀を手放そうとしないところが彼らしいといえば彼らしい。雨で洗われた顔に小太郎が手を伸ばすが、人の気配に敏いはずの政宗が目を開く様子はなかった。
触れた頬は、氷のように冷たい。
辺りに転がっている死体を思わせる冷たさにそれ以上触れることを一瞬躊躇うが、小太郎は動かない政宗の身体に手を回して上半身を起こさせる。地面には政宗が流した血液が何かの模様を描いていて、おそらくは近くに倒れている武将に傷つけられたのだろう。鋭利な刀傷によって殺されている彼は、武勇誉れ高いと近隣に名の知れた武将だった。どんな名前だったか小太郎は忘れてしまったが。
すぐに忘れてしまうのだ。
長く雨に叩かれ、すっかり冷えた政宗の身体を抱きしめる。いつかの夜に覚えた温もりはとうに消えうせ、強い光を放つ左目も屈託なく笑う唇も固く閉ざされたまま。まるで死んでいるかのように寒かった。

(それでも、これはまさむねだ)

抱きしめていると、じわじわと躊躇いがちに体温が戻ってくるのがわかる。息を殺して首筋に顔を埋めていると、小さく脈を打つ音が聞こえる。それらは雨に冷えた身体にとても暖かかった。
政宗はまだ生きている。この感覚を、小太郎はまだ覚えている。
言葉にすることはもう出来ないけれど。
声に出す代わり、雨に濡れて白い頬に張り付いた髪をそっと払った。

(まさむね)

音もなく、酷く緩慢に政宗の肩が動いた。黒篭手をはめた指が伸びて、小太郎の唇にそっと触れてくる。
乾いた唇は、指を乗せたまま政宗の名前を呆然と呟く。
声には出さず、唇の動きだけで躊躇うように。


彼は笑ってくれていた。







「……聞こえてるよ、馬鹿」







雫が激しく地を打つ音に紛れて、ともすれば聞き逃してしまうほど小さな声。
頬をなぞって雨水を払う仕草は、流れる涙を拭うときのそれに似ていた。






どうか、その声で早く名前を









目覚めよと呼ぶ声が聞こえ
06.10/24