今夜はいわゆる熱帯夜というやつだった。
昼に比べれば少しは過ごしやすくなっているはずだが、夜はあの焼けるような強い日差しがない代わり、湿気を含んだ空気が蒸し風呂のように重く体に纏わりついてくる。
車の広告が載った団扇ではたはたと風を扇ぐが、生温い風がかき混ぜられるだけで何の意味もない。
窓の外には鉄の棒を繋げて作った手製の風鈴を下げているが、風がないから吊り下がっているだけだ。金属が重なる時に立てる、あの涼しい音は今夜は期待できそうになかった。
開け放った窓から、潮騒の音が聞こえてくる。
すぐそばに、海があるのだ。海があるから体に纏わりつく風は塩も含んでいて、砂浜の砂が畳の上にざらざらとここまで運ばれている。全く過ごしにくいことこの上ない。
古ぼけた年代物の扇風機が、軋んだ音を立てて首を回している。
開いた窓枠に腕を乗せ団扇を扇いでいる小太郎と、こちらに背を向け、台所に立っている政宗の間に立ってゆっくりと。
思い切りの良い包丁の音を聞きながら、小太郎は窓の外を見た。
台所といっても、コンロと流しが付いているから二人がそう呼んでいるだけとというささやかなものだ。二人がそれぞれ暮らしてきた部屋に比べれば随分と狭い部屋だったが、それでも小太郎はこの空間に満足していた。
都会から何時間もかけて電車を乗り継ぎ、ぐねぐねと曲がりくねった名前も知らない道路を延々と歩いてやっと着いた場所だった。
立ち寄る者は長距離トラックの運転手か、道に迷った観光客くらいで目立った盛り場もない。
だから、窓の外は塗りつぶしたように黒い。
昼は目が潰れそうなほど眩しく光を反射しているあの海も、今は底なし沼のように暗く沈んでいるのだろう。
小太郎の腕から、ぽたりと汗が伝って落ちた。
拭うと、水浴びをしているわけでもないのにじっとりと濡れている。
扇風機一台だけでは、この暑さを無視できようもない。
借り物だから文句は言えないが、首を回すたびにぎこちない音を立ててうるさいし、時々急に動きが止まってしまう本当に古い扇風機なのだ。
新しいものを買うべきかと、胸の内で考えてみる。
といっても、扇風機を買う余裕なんて今の小太郎にはない。買う場所もない。
銀行から下したはした金とリュックに詰めた僅かな荷物、それだけを持って小太郎は政宗の手をとった。
躊躇いはなかった。
二人は、今、駆け落ちをしている。
「ほら、そこ片づけろよ」
扇風機を台所と居間の真ん中からちゃぶ台の横に移動させて、政宗も小太郎の隣に座る。
政宗が持ってきたのはざっくりと三角に切ったスイカだ。
夏はスイカを食べなければいけないという政宗の強い希望で、往復一時間かけて買ってきた。道を訊ねた時に返って来た、すぐ近く、という言葉を信じたのがいけなかった。車がなければ、個人経営の小さなスーパーに行くにもそれだけの苦労がいる場所なのだ。
強い紫外線とむせ返る熱気。
言い出したのは政宗のくせに、先にやられて道路に座り込んだのも政宗の方だ。
帰りは小太郎が腕を引っ張ってやらなければ動くこともできなかった。
切り取った崖によってできた日陰に瀕死の態で避難すると、暑さに狂った息を絶え絶えに整える。それほど消耗していても手放さない二分の一カットの、赤いスイカ。
季節の風物詩を尊ぶ感覚を持たない小太郎には、なぜ政宗がそこまでしてスイカにこだわるのか理解できない。
政宗の手からスーパーの袋を取ると、もう片方の手で政宗の腕を引き立ち上がることを促してみる。だらりと引き上がる腕は紙切れのように軽くて頼りないくせ、体は鉛のように重く、未だ腰を上げることはできないようだった。
のろのろと顔を上げると、政宗は眉を下げて何も言わない小太郎に力なく微笑みかける。
熱に浮かされた政宗の左目は潤んでいて、泣いているようにも見えた。
「……ごめんな」
謝る必要はない。
言葉にする代わりに、首を横に振る。
炎天の下重いスイカを抱えて延々と歩くことも、政宗に付き合うこともすべて自分で決めたことだ。
他の誰でもなく、自分が側にいることを政宗が望んでいるのならそれで十分理由になった。
握った手のひらに力を込めると、安心したようにそっと綻ぶ、不安を隠し切れていないその顔が小太郎は好きなのだと思う。
スイカは政宗がこだわっただけのことはあり、真っ黒い種と鮮やかな赤の果肉、そして緑の皮の対比がいかにも美味そうであった。
スプーンで掬うような上品なことはしない。直に手で持って豪快に齧り付くと、途端に甘い匂いが狭い部屋いっぱいに広がっていく。
帰ってくるなり問答無用で冷蔵庫にぶち込んだスイカは、ちょうど良い冷たさを持っていて僅かにだが体が涼しくなったような心地までした。
待ち望んでいた夏の味に、満足そうに政宗が笑う。
「あー、やっぱコレ食わねえと夏になった気がしないわ」
溢れた果汁は、指で掬ってぺろりと舐める。濡れた唇は赤かった。
スイカは美味いが、すぐに果汁が零れるから大変だ。スイカを持った手からべたついた果汁が肘までとろりと伝い降りていく。
政宗の肌を彩る、薄く赤い夏の色。
欲しくなったから手を伸ばす。
「お前さあ、スイカの種ってどうしてる?」
ぷ、と口を尖らして種を吐き出す政宗の声にも答えずに彼の腕を掴んだ。
薄赤色の水滴をつくった肘に唇を寄せ、舌で舐めながら軽く吸う。
「な……おいっ、」
驚いたように見開く左目。突然の刺激に、政宗の体が小さく震えた。
白い肌を舐めながら、それを見つめる。非難めいた政宗の表情は、しかし見上げる小太郎の目と会うと戸惑ったように視線を逸らされた。
人を射抜くように真っ直ぐと見つめる、長い髪に隠れた小太郎の両目。自分では特に意識したこともないが、この目でじっと見上げると政宗が優しくしてくれることを小太郎は数度の経験から知っていた。
肘から手首、指の先まで果汁を救う舌を這いあがらせていく。指先を食み、口付けても政宗は小太郎を拒絶しない。
政宗の長い睫が、紅く染まった頬に影を落として揺れる。その様はひどく艶めいていて、戸惑いながらも彼が自分を受け入れてくれる喜びを知るたび何度でも小太郎の心は踊った。
「……人の話無視して盛ってんじゃねえっての」
染まった頬はそのままに、吊り上がった左目で睨みつけながらもどこか上ずった早口の声。
答える代わりに、がり、と口の中の種を噛み砕いた。
驚いたように、一瞬政宗の目が大きく見開く。
「そんな食い方する奴、初めて見た」
声を上げて政宗が面白そうに笑うものだから、小太郎もぎこちなく笑い返す。
笑っているのか口を歪めただけなのか。すぐには見分けがつかないほどの下手な笑い方だが、これから上手くなればいいと目の前の人は言ってくれている。
重ねた唇は、スイカの甘い味に砕けた種の破片が混じって少しだけ苦かった。
照明を落とした部屋は暗かったが、開いた窓から茫洋と夜の月と星の光が差し込んでいるので何も見えないわけではない。
窓際に座り込んで、特に何をするでもなく小太郎はぼんやりと団扇を扇いでいる。
静かな夜だ。
周りに何もないものだから聞こえてくるのは旧式の扇風機が風を起こす音と近くにある海がたてる波の音くらいで、政宗の寝息はそれらにかき消されるほど小さくて控えめなものだった。
死んでるんじゃないかとさえ思う。
額に浮いた汗と苦しそうに顰められた顔を見て、彼がまだ生きていることに安心する。
少しでも楽になればと、自分でも団扇を扇いで政宗に風を送ってやった。
政宗は暑さに弱い。
強がりだから何でもない風を装って外に出るが、すぐに倒れる。
小太郎は暑さに強いのでこれくらいの熱帯夜でも問題ないが、政宗が辛いなら早く涼しくなってほしいと思った。
夏が過ぎて秋になり涼しくなって、寒さが厳しい冬に夏の暑さを懐かしむことができればと、その時二人一緒にいることができればどんなにいいだろうと、ぼんやり思う。
六畳程度の小さな部屋でしばらく暮らすことが決まった時、政宗は申し訳なさそうに謝った。
自分の我が儘に付き合わせて、不便な生活をさせてしまって申し訳ないと、ふとした瞬間に切れ長の目を伏せてそのたび小太郎に謝る。
謝る必要などないのに。
申し訳ないと思うのは、政宗が今の状況に満足していないからだろう。小太郎は猫の額のように小さな部屋で冷房がない日々を過ごすことなんて少しも苦じゃなかった。
いい加減、自分が嫌なことは絶対にしない性質だという事に気づいてもよさそうなものなのに。
ぽつりと甘えた愚痴を落とすが、政宗は目を覚まさない。
暑さにうなされながらも、小太郎の傍で呑気に眠り続けている。
流れた汗に髪の毛が一筋、政宗の頬に張り付いているのを見つけた。
一瞬ためらったが、そっと手を伸ばす。しっとりと濡れた肌に指を這わせると、理由も分からないのにそれだけで胸が潰れそうだった。
駆け落ちなんて言葉のあやだ。
わかっていても、その言葉にすがりついた。
彼が自分を相手に選んでくれた時、待ち合わせ場所の駅でバッグを抱えた彼を見つけた時は、本当に嬉しかった。
そう遠くない未来、もしかしたら明日にでもあの街に帰らなければならないことをわかっていても。
騒々しい雑踏の中から小太郎の姿を見つけ、笑いかけてくれたのだからそれで十分だった。十分の筈だった。
小太郎はぼんやりと窓の外を眺める。
静かな夜だと思う。
周りに何もないものだから聞こえてくるのは旧式の扇風機が風を起こす音と近くにある海がたてる波の音くらいで、まるでこの世界に自分と政宗の二人しかいないような錯覚を覚えることができる。
実際、今この場所にいるのは小太郎と政宗の二人だけだった。誰とも連絡を取っていないからこの場所を知っているのも、そして触れることも頼ることができるのも互いだけ。二人の世界。
奇妙な不安と高揚が、代わる代わるに胸の中に満ちては引いていく。
数少ない表情の中から、自嘲を選んで小太郎はふと口元を歪めた。
(あの街から抜け出したかったのは自分の方なのかもしれない)
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