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……いつの間に雨は止んだのだろう。
空を見上げると、星空が遠かった。
ぼろぼろと崩れた城に引き摺られ、谷底に落ちた政宗は空を見上げている。目の前の崖は高くて登れそうにない。
プルプルと身体を震わせて埃をはらい、瓦礫の山から幸村が顔をのぞかせたときも茫然と空を見上げるだけだった。
羽を広げて、一隻の軍艦が悠々と政宗の上を横切って行った。
あれも、政宗の住んでいたあの街を焼きに行くのだろうか。小太郎のいるあの街を。
「ワン!ワン、ワン」
「幸村……俺、どうしよう」
袖を引っ張られて、ようやく政宗は視線を下へと降ろす。
それがいけなかった。
「佐助に水をかけちまった……」
言葉にすると、自分が何をしたのか余計に思い知らされる。
炎の悪魔である佐助は、いつも大袈裟すぎるほど水に触れることを恐れていた。
水をかけられたら死んでしまうと、それこそ毎日のように嘆いていたというのに。
「小太郎が死んだらどうしよう…………!」
ぼろり、と涙が左目から溢れて落ちる。
一度流れてしまえば、今まで我慢していた分を取り返すようにぼろぼろと流れて止まらない。
幾粒もの水滴が指の間から零れては、鉄くずの表面を滑り落ちていく。
とうとう堪え切れなくなって、政宗は両手で顔を覆うと声を上げて泣き出した。
「ワン!ワン!ワンワン!」
だから気がつかなかった。
袖を引っ張り、膝に乗って声を張り上げ必死に幸村が伝えようと頑張っている。
政宗が左手に嵌めた銀の指輪が、ほろほろと淡い光を放って一点を指し示していることに。
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まるで空と大地が繋がっているように見える夜だった。
星の光を浴びて湿原がきらきらと輝き、空の銀河は霧に紛れて湿原へと流れていく。
銀河から離れて星が一つ、弧を描いて地面へ落ちた。
次々と星が流れ、流星雨は音を立てて沼へ飛び込んでいく。
じゅっと、焼け石に水をかけるような音。暗い水底には、流れ星のなれの果てである小さなかたまりが次第に光を失っていく。
小太郎は、両腕を伸ばして一つの流れ星をつかまえた。
まわりの水草や夜色の水を照らす、ほの白いグリーンの光。
両手の中に閉じ込めれば、まるで小太郎自身も輝いたように内から照らし出す。
(なんて綺麗なんだろう)
空から落ちた時に分かっていた結末だけれど、佐助はまだ死にたくなかった。
小太郎は、佐助を気の毒と思っただけだったのだ。
だから、二人は契約を結んだ。
佐助を掬った小太郎は、そのまま両手を口元へと運ぶ。
一息に吸い込まれる、流れ星のオレンジ色の輝き。悪魔の炎。
熱かった。
まるで身体の中で炎が暴れているような、今まで感じたことのない熱。
「小太郎!佐助!」
……遠くで、名前を呼ぶ声がした。
ここに生きているものは自分たちしかいないのに。
気のせいかとも思ったが、ふと胸騒ぎを感じて振り返る。泥をかき分け、必死でこちらに手を伸ばそうとする一人の人間。
あの人は、誰なのだろう。
「未来で待ってろ!絶対、行くから!」
「必ず、会いにいくから――!!」
必死な声。切実な響き。
まるで、こちらまで泣きたくなるような優しさに満ちた人。
水面がくずれ、暗闇に落ち行くその顔を二人はしっかりと焼きつける。
綺麗な綺麗な鳶色の目をした愛しい人。
一生忘れることはできないだろうと、そう思った。
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瓦礫の山に囲まれて、腐臭を漂わせながら黒灰色の塊がうずくまっている。
そうっと政宗が羽をかきわけると、ガラス玉のように無機質な両目を見つけた。細く引き締まった、端正だった顔。小太郎が人間の名残を残しているのはそれくらいだ。
空ろな視線を一点に張り付けたまま、小太郎はもう何も見ていない。政宗をその目に映して微笑むこともない。
「……待つ必要なんてなかったんだよ、お前は」
両手を回して抱きしめると、政宗は自嘲するように小さく笑った。
「世の中には、俺よりイイ女なんてそれこそ星の数ほどもいるんだぜ?なのに、どうして俺を選ぶのかね」
小太郎は何の反応も返さない。まるで生きた屍のようで、一体どれだけ心を砕けばこんな姿になれるのだろう。
ぽたりぽたりと、傷口からは血が流れている。すっかり汚れきった黒灰色の羽を愛しむように撫でながら、そっと左目を閉じ彼に身体を委ねた。
ここまで来たのだ。
「……一緒に行こうか、小太郎」
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「……本当は、わかっているんだよ。秀吉がもう僕の元に帰ってこないことくらい」
政宗に柔らかく抱きしめられて、荒地の魔法使いは諦めたように瞳を閉ざす。
夜気と朝露で冷え切った身体には、染み入るような温もりだった。
秀吉と一緒だった、あの幸せな時間を思い出す。先にいなくなるのは自分だと思っていたのに。
「勝手な考えだけど、もっと、君と早くに出会えていたらと思う」
「……ありがとう、半兵衛」
半兵衛の体に負担をかけないよう、親愛の情を持って彼を抱きしめる。躊躇いがちながらも、彼は片手をまわして政宗を抱きしめ返してくれた。
「せいぜい、大事にすることだね」
「ああ、わかってる」
両手を使い、そっと佐助を手渡される。疲れが重なっているのだろう、佐助はまた小さな炎の塊になっていたし、色も白っぽく薄れていた。
「佐助、生きてるか?」
「……今にも死にそうなくらい、クタクタですよ」
「馬ー鹿」
それでも軽口を叩く佐助に、政宗はほっと安堵して笑う。
やっぱり彼には死んでほしくないと、強く思った。
「心臓を小太郎に返したら、お前は死ぬのか?」
「政宗なら大丈夫だよ。たぶん」
随分と頼りない答えだが、佐助も政宗に笑い返した。ニヤリと口を歪める、あの笑い方だ。
「俺に水をかけても、俺も小太郎も死ななかったからね。だからアンタに頼んだんだ。自分でも気づいてるかい?あのカブ頭を動かしたのだって、アンタのその不思議な力のせいなんだぜ」
「それなら、佐助が千年も長生きできますように!」
政宗は言うと同時に、心の中でも強く念じた。言葉だけでは不安だったからだ。ずっとそれが気がかりだった。
願いながら、小太郎の左胸に佐助をそっと押しつけた。
いつも厄介事が起きるたびに、心臓がドキドキと動くあの場所だ。
思っていたよりも簡単に、すんなりと佐助は小太郎の中に入っていく。心臓が元の場所に還っていく。
すっかり体内に入りきると、虹色の光が方々に飛び出して周囲を明るく染めた。
きらきらと綺麗な緑色を輝かせて、佐助がくるっと政宗たちの上で回転する。
「生きてる!ああ、やっと自由になれた!」
政宗の周りをくるくると軽やかに舞いながら、カブ頭の案山子を飛び越えひゅうと弧を描いて空高くへ登って行った。
「自由だ!」
上空で佐助の歓声が聞こえる。
小さなうめき声を上げて、地上では小太郎が身動きをする。
「動いた!生きてる!」
いつきが嬉しそうに手を叩く。
その瞬間、佐助の魔法が解けて小さくなった城は今度こそ完全に壊れた。
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「カブ!」
佐助の助けを失い、崖を転がり落ちる政宗たちを助けたのはカブ頭の案山子だった。
彼は自分の一本足を犠牲にして、彼らの乗った板きれを深い谷底に落とすことを食い止めたのだ。
「おい、しっかりしろよ!?すぐに新しい棒を見つけてやるから!」
ぐったりと倒れたカブ頭を抱え、政宗が呼びかけるが彼はもう動きもしない。
「カブ……thank you」
命の恩人に、政宗は感謝を込めてキスをする。
ぷくぷくと身体を膨らませ、ゴムのように大きく伸び縮む姿には、すわゴム人形の来襲かと心底驚いたものだ。
「いやー、助かった助かった。本当ありがとう、政宗!」
古ぼけた案山子姿から一転、派手な傾奇者の衣装に身を包み鮮やかな羽飾りをあしらった大柄な男が現れた。
屈託のない人懐っこい笑い方をする男で、全身で喜びを表す幼くも爽やかな雰囲気が人の警戒心を薄れさせる。
「俺は、隣の国の王子の慶次っていうんだ。呪いでカブ頭にされていたんだよ」
「愛する者にキスされないと解けない呪いだね」
「その通り!政宗が助けてくれなかったら、俺は今頃案山子のまんま死んでたかもな。いやー、やっぱり愛の力ってのは強いね!恋最高!」
「はあ……」
上機嫌に笑いながら、政宗の手を取ってぶんぶんと振り回す。
それでも反応の薄い政宗を見て、上機嫌だった慶次はちょっとだけ困ったように眉を八の字に下げた。
「……そりゃ、男だとは思わなかったけどさ。でも性別なんて今更関係ないだろ?」
「え」
言われて初めて気が付いた。
慌てて慶次の手を振りほどき、政宗は自らの全身を振り返る。
鍛えて引き締まった腕、高くなった視点、喉に手を伸ばせば仏が大きく出っ張っていた。胸にぶら下がっていた脂肪も取れて体が軽い。
本当に、いつの間に男に戻っていたのか。
本来の性に戻れたのは嬉しいが、気がつかなかったのが恐ろしい。
幸村をきゅっと抱えながら、いつきが不思議な顔をしている。
「政宗、男だったんか……」
「佐助君の仕業だね」
ああ、そうだ。佐助と契約を交わしていたのだ。佐助と小太郎の間にある呪いを解けば、代わりに政宗の呪いを解くという。
ありがとう佐助。でも先に一言くらい言ってくれたっていいじゃないか。
いつきに何と説明すればよいのだろう。嫌われたらどうしよう。
戸惑っていると、小太郎と目があった。
目が合うといっても、彼の目は長い前髪で隠されているから正確にはわからないが。それでも彼が政宗を見ていることは、雰囲気でわかった。
ぴし、と、今度こそ固まってしまった政宗を見て小太郎が口を開く。
「その姿、久しぶりだ」
「…………驚かないのかよ」
「政宗のことで、佐助が知っていて俺が知らないことはないよ」
そんな簡単なことでいいのか。
くらくらと目眩を起こす政宗を横目に、仰向けに倒れていた小太郎はゆっくりと上半身を起こす。
何か言いたげに口元を歪めたが、それは固い床の上にずっと寝ていたからだろう。背中が痛くなっても当然だ。
心臓が元の場所に戻ったといっても、小太郎は大して変わっていなかった。
せいぜいがガラス玉のような両目が少し濃い色味を帯びて、素敵な夢を見た後のようにうっすらと頬に赤みがさしているくらいだろうか。
すっと政宗の頬に手を伸ばして、小太郎が眩しそうに目を細める。
今までで一番魅力的な笑顔だった。
「政宗が政宗なら、俺はそれでいい」
右の頬を優しくなぞられて、政宗は左目を見開いた。
そして困ったように苦笑すると、力の限り小太郎を殴り飛ばす。
「当たり前だ、馬鹿が!」
ゴッ!と良い音を立てて小太郎の頭が床と激突した。威勢のいい音に思わず声を出して笑いながら、政宗は赤橙の頭を今度は労わるように撫でてやる。
「今度、あんな無茶をしやがったらただじゃおかねえからな」
額にキスを一つ落とす。拒絶されたり、困った顔をされたらそれで終わりにしようと思っていた。
女のように細くも柔らかくもない腰に手を回される。男にキスをねだられるなんて想像もしていなかったから驚いてしまったが、仕方がないと苦笑して今度は政宗から小太郎に唇を重ねた。
やられっぱなしは政宗の趣味じゃない。
あっという間に二人の世界から引き離された慶次は、ぽつんとつまらなそうに小石を蹴りあげた。
「しかも政宗、既に男が付いてるしさー。ここで邪魔したら、俺がカボチャと一緒に煮込まれるじゃん」
興味津津、といった風で政宗たちを見守っていたいつきの両目を問答無用で隠して、半兵衛が鼻で笑う。
「出刃亀になるのが嫌なら、君は国に帰ってさっさと戦争でもやめさせるんだね」
「そうすっかなー。でも戦争が終わったらまた遊びに来ていい?」
朱刀をとんと肩にのせ案山子のように腕を絡ませながら、にやりと笑う。
悪戯っぽい笑みは、他の人間が浮かべたなら意地が悪いと評されたかもしれない。しかしこの男が浮かべれば、まるで頭上に輝いている朝日のようにどこまでも清々しく見えるのが不思議ではあった。
「心変りは、人の世の常っていうからさ」
耐え切れなくなって、ふっと半兵衛は顔を綻ばせた。
彼の言葉の正しさについては、つい先ほど自分自身で立証したばかりだ。
「全く、先が楽しみなことだね」
「ワン!」
彼らの足元では、迎えたハッピーエンドに幸村が嬉しそうに走り回っている。
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水晶玉の向こうで笑っている幸村を見つけ、元就はその秀麗な顔を不快気に歪ませる。
「……この浮気者め。貴様にはもう二度と団子は食わせてやらん」
大好物の団子禁止令を出され、今度は悲しそうに泣きながらあたふたとその場を駆け回る幸村の後ろでは、隣国の王子が朱刀に足をひっかけて荒野を去っていく。彼は、このまま国に帰るのだろう。件の放浪癖がまた出てこなければ。
「それが嫌なら、さっさと帰ってこい」
「元就ーぃ!今度のは凄いぜ!自信作!」
「そうか」
この国の王である元親に設計図を渡されると、元就は中身も見ずにビリビリと破り捨てて焼き焦がした。
「俺の自信作が!」
「……いい加減、このバカげた戦争を終わらせようと思っていたところだ」
ふう、とため息を吐いて頬杖を突く。
たかが兵器一つに国の予算を傾けさせては、偉大なる日輪に顔向けもできないのである。
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「佐助だ!」
いつきが指差した方を振り向くと、緑の光をきらきらと瞬かせて佐助が政宗たちの前に戻ってきた。
政宗が腕を伸ばすと、彼の指先をくるくると踊る。
「何だよ、戻ってこなくてもよかったのに」
「戻りたかったの!いいじゃん、今じゃ自由に行ったり来たりできるんだから」
グリーンに光る流れ星からオレンジの炎を纏った人へと姿を変えて、佐助はにっこりと政宗の手を握った。
ひく、と小太郎の口元がひきつる。
「それに、もうすぐ雨が降りそうだしね」
確かに空は曇り模様だったが、それより早く。
政宗の頬にキスを落とした佐助を、小太郎が殴り倒しての血の雨の方が早く降りそうだった。
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