政の実家から仙台味噌が送られてきた。
辛口だが塩慣れしたまろやかな赤味噌は、夫婦二人揃って大好物だ。
実家といっても、届け人の名前は伊達ではなく片倉小十郎という辺りに親子の確執というものを小太郎は毎回感じるのだが、政は気にした風もなく嬉しそうにどう味噌を使って料理するか考えている。
味噌は味噌汁にするだけでなく、和えても焼いても煮ても美味い。というか政がつくるなら何でも美味い。いや、これは単に惚れた欲目ではなしに。
「たくさんあるから、少し元就んとこにお裾分けしようか」
一人頷いていると、政がそんなことを提案してきた。
元就というのは風魔夫婦が住んでいるマンションのお隣さんで、小太郎達がこのマンションに越して半年ごろにやってきた同じく新婚さんである。何とかというでっかい会社の息子で、今は某重役ポストについているが三十路を越えたら即エスカレーター式に社長の椅子に座るだろうという噂の、まあ要するに小太郎には縁のない種類の人間だ。
何でそんな人間がこのマンションを選んだかというと、なんと彼は政の古い友人なのだそうで。ご夫婦で新しく新居を探しているところ、様々な立地条件のほか、友人の最終的に政がいるならという理由でここを選んだらしい。
元就の上からものを見た物言いが小太郎は少し苦手だったが、政は慣れているらしく軽く受け流して、ざっくばらんに男女を越えた友情を今でも育んでいる。おまけに彼の奥さんとも気が合うらしくとても仲が良い。
余った味噌のカップを袋に詰めて、政が出かける準備を始める。リビングのソファに座りこんだままその動きを眺めていると、振り返った政ににこりと笑いかけられた。
「一緒に行こう?」
愛しい奥さんのお誘いだ。
拒否する理由があるはずもない。
まあそういうわけで、現在風魔夫婦は二人仲良く並んで毛利家の扉の前に仙台味噌抱えて立っているのだが、前述の通り小太郎は元就のことが苦手だ。もっと言えば毛利夫婦のことが苦手である。
いや、奥さんはいい人なのなのだ。明るく気さくで、面倒見もいい。挨拶一つまともに返せない小太郎にさえ、変わらない態度で接してくれる。元就の、小太郎とはまた違った人付き合いの悪さに心配していた政も彼女ならと、喜んで二人を祝福したものだ。
だが、だがしかし。
それは例えば朝のゴミ捨て場。例えば夜の非常階段。
スーパーでばったり出会ったときの他愛もない仕草や会話の節々に。
きっと政は気付いていないのだろうなあ、と小太郎は自分より毛利夫妻との付き合いが長い妻を横目で見るが、彼女は旦那の思いには気付かずに、何の気負いもなくピンポーンとチャイムを鳴らしてしまう。
しばしの沈黙。
さらにしばしの沈黙。
「……留守かな」
反応が返ってこないことに政が首を傾げるが、それと同時にカチャリと扉の鍵が回された。
鍵が開くのはありがたいが、やけにゆっくりとした、躊躇いがちな動きだ。
漂う嫌な予感に、小太郎の顔が僅か強張る。
キィ、と小さな音を立てて開かれる扉の隙間から、ひょっこり顔を覗かせたのは奥さんの方だった。
はねた銀髪に左目の眼帯、身長は夫の元就や小太郎よりも高い。肩幅も広く、いかにもスポーツが得意そうながっしりとした女性である。
頼もしそうな外見とは裏腹に、何故か今日は戸惑いがちな表情で外を窺っていたが二人の顔を見ると彼女は明らかにほっとした顔で出迎えてくれた。
「なんだ、あんた等か」
「なんだって何だよ。もしかして寝てた?もう昼だけど」
「えっ?あ、ああ、うん。まあね」
政が指摘すると、かなり焦った顔でガウンを襟元に引き寄せる。
「昨日は、ちょっと忙しくてさ。今日はどしたの?」
「あ、そうそう。家から味噌が送られてきたから、おすそ分けに」
「マジで!?うわ、すごい嬉しい!」
味噌を見せると、パッと顔を明るくして喜ぶその姿はさすがに一家の台所を預かる女性といったところだろう。そのまま今の時期はどの魚が味噌に合うだのどこの店の漬物が美味いだのと主婦の会話に突入してしまい、小太郎は居心地が悪いことこの上ない。
しかし、最初に感じた不安はどうにも杞憂だったようで少し安心もした。小太郎の勘が、しかも悪い方面においてのそれが外れることは滅多にないが、悪いことはないほうが良いに決まっている。
「そろそろ味噌が切れる頃でさ、助かったわー」
そう話を締めると、味噌を受け取るべく毛利家の新妻が襟元を握り締めていた手を離した。
はらり、と。
その瞬間、ガウンのベルトが解けた。
緩んでいたのだろう、布製のそれはだらしなく垂れ下がって前が開く。
中身は看護士さんの制服(しかもミニ)だった。
健康的な脚を包むストッキングは伝線だらけのビリビリである。
耳に痛いほどの沈黙。
「…………」
「…………」
「…………」
「………………チカ」
「………………はい」
「ここ、白いのついてる」
政が無感動に自分の胸元を指差すと、チカは、旧姓長曾我部千華子、現在毛利千華子は酷くうろたえた仕草で露わになった胸元へ手を伸ばす。白くて粘着性のある何かが、豊満な胸の谷間にぺっとりとくっ付いていた。
「ち、違っ!いや違わないけど、いや、やっぱ違う!違うから!これには事情が……!」
急いで拭ったはいいものの、どこへ捨てればいいのかわからず文字通り右往左往ばかりしてしまう。おろおろと困っていると、今度は突然政が立てた爽やかな笑い声にびくっと体を振るわせた。
「もー、チカってば本当ドジ!身だしなみくらいちゃんと整えときなよ!」
「え、え、えええ?」
「あたしらだったからよかったようなもんだけどさ、誤解されても知らないよー?」
ぱちん、と悪戯っぽくウィンクをされて、千華子は思わず反射で頷く。
こういう相手に有無を言わせないところが、彼女が元就と長く付き合えて来た所以だなあと思っていたりする。強引なところとかそっくりだ。
先程までと変わらない政の態度に内心安堵ながら、仙台味噌を受け取った。
「……う、うん。ありがと」
「じゃ、次は気をつけなよ。またねー」
ぱたぱたと手を振りながら政は旦那(存在感皆無)の手をとると、本当に何事もなかったかのようにパタンと扉を閉じて帰っていった。
「助かっ……た、のか?」
ぽそりと呟いて、悪戯された看護婦さん姿のまま千華子は心底安心したようにずるずるとへたり込む。
余談だが、彼女は人がいいところと楽観的なところがよく人に評価されている。
さて毛利家をあとにした小太郎と政だが、旦那の方はこういう形で自分の勘が当たって心の底から嬉しくなかった。
例えば朝のゴミ捨て場では、ごっつい鎖付きの首輪をつけたまゴミ袋を抱えた奥さんに爽やかな朝の挨拶をされた。
スーパーでばったり出会ったときは、首に荒縄の赤い跡を見つけてしまった。
夜の非常階段、仕事帰りで疲れた小太郎は、顔を真っ赤にして荒い息をついている千華子が内股で辛そうに階段を登っているところを上階から彼女の夫が怪しく微笑みながら見下ろしている場面を見かけてしまったことがある。千華子の近くではブーンと虫がうなるような妙な振動音が聞こえてきて、これの意味がわかる自分に泣きたくなったものだ。気付かれる前にエレベーターの前まで走って逃げた。
他にも火傷の跡とか鞭の跡とか玄関から聞こえる謎の悲鳴とか、とにかく関わり合いになるのを避けたくなるような夜の生活が赤裸々に見えてしまうのである。毛利夫妻の近くにいると。
元就の友人である自分の妻が、彼と同じ性癖でないことがせめてもの救いだった。
いや、彼女が望むならどんなリクエストにも応えるつもりだが、彼女はそこまでアブノーマルな趣味を持っていない。残念なことに。
友人のあんな姿を目の当たりにしてしまい、さぞかし辛かっただろうと痛ましく思いながら妻と繋いだままの手に力を込める。
「整髪料」
「……?」
政は何故か笑顔でニコニコ笑っていた。千華子に見せたのと同じ、爽やかな笑顔だった。
「ワックスだったよね、あれ。使ってるときにうっかり落ちちゃっただけなんだよね、胸元に!」
繋いだ手はぎりぎりと力の限り握り締められてかなり痛い。何だか指先が青くなってるような気がしたが、それより愛する妻の必死な形相に小太郎は前髪の奥で目を丸くする。
小太郎に話しかけているというより、自分に言い聞かせているような物言いだ。
無理があるような気がするが、結局何も言わずに旦那は無事な方の手で愛する奥さんを抱き寄せる。
この分だと、奥さんも見てみぬ振りをしていたのだろう。毛利家の玄関に元就の靴が揃えてあったことを。小太郎達が来る前、あの家でどんなプレイが行なわれていたのかは想像しない方が身のためのようだ。なんでナース服持ってんだよあいつ。
しかし何が一番厄介って、被害者であるはずのチカが指摘されるたびに顔を真っ青ではなく真っ赤にして恥らうってことなんだから救いようがない。
向うに自重させるかこっちが諦めるか、まあ、後者だろうなあと小太郎は意味もなく遠くを眺めてみたりした。単に味噌を分けに来ただけなのに。
|