風魔小太郎は、意外と高給取りだ。
月々で会社に入ってくる仕事の数によるが、それでも毎月ちょっとした額の数字が銀行の通帳(妻のために新しく用意した、疚しい点など何一つないクリーンな方)に書き込まれている。
もちろん、高いだけの理由はきちんとある。危険な仕事だし、夜勤残業職場での泊まり込みなんて珍しいことじゃない。週休二日制なんて夢の話だ。仕事の内容によっては出張の場合もある。
そして、小太郎はその一週間の出張から愛しの我が家へと帰ってきたばかりだった。


「もう、小太郎くすぐったい」
クスクスと、困った顔をして政が笑う。困っているのは、ここが台所で、後ろから抱きつかれたままでは動きにくいからだ。わかってはいたが、離れる気にはとうていならない。腰を抱く腕に力を込めて、ぎゅっと抱き寄せる。項に顔を埋めると、仄かに甘い匂いが漂ってきて小太郎は口元を綻ばせた。すっかり慣れ親しんだ愛しい匂い。政の匂いだ。
たった一週間、されど一週間である。
携帯で連絡を取ることはできても、顔を見ることも肌に触れることもできなかったこの時間は小太郎にとってかなりきつかった。仕事を終わらせて帰っても、政に「アンタ誰」って顔で拒絶されたらどうしようと、想像するだけで小太郎は軽く死ねた。ビジネスホテルのベッドの上でちょっと泣いた。風魔夫婦はいつもでっかいキングサイズのベッドの上でゆったり寝ているので、狭苦しい部屋の隅にぎゅっと押し込んだ固いシングルベッドの上に一人だと孤独感が倍増して良い感じだった。
何たって新婚さんである。結婚して1年経つが、3年までは新婚さんで通るらしいのでちょっとくらいラブラブしいのがうざくても勘弁してもらいたい。仕事を早めに終わらせて、予定より少し早い時間に帰ってきた旦那を、政はいつもの優しい笑顔で迎えてくれたのだ。今だって、こうして小太郎のために夕食の準備をしてくれている。嬉しいのと悪戯心が半分ずつ、肩まで伸びた茶髪をかきわけて後ろから項にキスを落す。
「包丁使ってるんだって、今。危ないから……って、おい!どこ触ってんだこら!」
さすがに、エプロンの中に手を差し込んだら怒られた。
しかし、料理中だということは政は今両手が使えないわけで。まだ本気で嫌がってるわけでもないみたいだし(彼女が本気を出したら部屋が血で汚れる)


たった一週間、されど一週間。
会いたくて仕方がなかった。
触れたくて仕方がなかった。

(盲目なのは承知の上だ)


首の周辺、弱いところを啄ばみ辿りながら政の柔らかい胸に手を伸ばす。太ももを撫でる。

「や、ぁ、あっ……んん……って、待って、待って、小太郎!」

洒落になんねえ、と政が震えた声を出して腕を振り解く。恋愛結婚なだけあって、政のどこが弱いのか小太郎は政自身より知っていたりするのだ。このままじゃ絶対に流される。
危機感を感じながら振り向くと、小太郎の顔が予想より至近距離にあって一瞬どきりとした。政に触れた舌で、旦那が自分の乾いた唇を一舐めする。その仕草が何だか色っぽくてムカついた。

(そりゃ、あたしだって会えなくて寂しかったけど)

「でも、だからってこんなところで……」
台所である。まな板の上には千切り途中の野菜が転がってるし、鍋はコトコトと美味しそうな音を立てて煮えている。生活感溢れすぎていて、ノーマル思考の政としてはあんまり興が乗らない。
躊躇う政を見て、小太郎は少しだけ悲しそうに眉根を寄せた。政より背が高く、見上げているのはこちらの方なのに、真摯に見詰めてくる両目はどっかの捨てられた子犬のように不安げで頼りない。この目で見詰められると、政は弱かった。
真正面から抱きしめられる。政が振りほどこうと思えばそうできるほど弱弱しくて、優しい抱きしめ方だ。ふ、と耳に小太郎の気がかかって顔が真っ赤になるのがわかる。吐息のように囁かれる、熱っぽい声。政以外の誰かが聞くことはないし、聞くこともできない。彼女だけに向けられたひたむきな感情。
「……馬鹿」
きゅん、と思わずときめいた自分が悔しくてそんな憎まれ口を叩く。それでも、小太郎には十分通じたらしく、嬉しそうに笑って妻の頬に手を伸ばす。二人の顔がゆっくりと近づいていく。




















ピンポーン。










呑気に鳴り響いたインターホンの音に、ぴたりと動きが止まった。
「はーい!今行きまーす!」
まあいいか、と何事もなく行為を再開しようとした旦那の横っ面を思い切り肘で殴って(ゴキッ、ていい音がした)、乱れた服を直しながら政はそそくさと玄関に向かう。

(やっべー!危うく流されるところだった!)

と、真っ赤になって恥ずかしがる新妻の顔は大変可愛らしかったが、生憎旦那は彼女のエルボーをまともに食らって台所で悶絶中である。冷蔵庫の前にうずくまって必死に痛みを堪えていたが、そんなこたぁ知ったことじゃない。夫婦の営みについて、お嬢様育ちの政はがちがちのノーマル思考なのである。鏡の前で数回頬を叩き、顔を整えると玄関の扉を開いた。

「こんにちはー!元気してた?政ちゃん」

まさに天真爛漫、疚しいところなんて一つもありませんよ。とアピールしまくった笑顔で現れたのは佐助だった。小太郎の同僚である。限界まで着崩したスーツやピンで留めまくったオレンジの髪などで、全然そうは見えないがこれども小太郎と同じ職場で働く社会の歯車である。
「元気って、昨日も会ったばかりじゃない」
「ま、そーなんだけどね。やっぱり政ちゃんが元気だと俺も嬉しくなるわけで。はいこれ今日のお土産」
「うわぁ、あたしここのお店大好き!いつもありがとうございます」
「本当?よかったー、じゃあ今度一緒に行こうよ。ちょうど春の苺フェア……が……」
にこにこへらへらした笑いが、ある一転を見た途端氷のように固まってしまう。政の後ろ、リビングから彼女の旦那(何故か左の頬を押さえている)が佐助を「人の嫁に馴れ馴れしくしやがって」と言いたげに睨んでいたからである。前髪で隠れていて目は見えないが、雰囲気でわかる。
佐助はケーキの箱を手渡すついで、ちゃっかり撫でていた政の手を慌てて離して今度は引き攣った笑みを浮かべた。
「なんで?つか、どうして?帰ってくんの明日じゃなかったっけ?」
「仕事、早めに終わったから帰ってきたんだって。会社から聞いてないの?」
「や、俺今日外回りから直接来たから……うわぁ」
政に余計な真似したら殺す。
以前、凄みを利かせて言われた台詞(携帯で)を思い出して佐助は冷や汗を流す。いや、まだ余計な真似といえるほどのことはしていないが、旦那の出張中に布石を張っとく気満々だったので完璧無罪とは言いがたい。
「……うん?ああ、佐助さんは小太郎がいない間に不便があったら何でも言ってくれって、毎日様子を見に来てくれていたの」
にっこりと無邪気な笑みを浮かべる政に対して、小太郎は、にい、と不気味に口を吊り上げた笑みを浮かべている。ちょいちょい、と手招きされるが嫌な予感しかしないので行かない。引き攣った笑顔のまま、ぶんぶか首を横に振った。
「……えーと、じゃあ、俺はこの辺で」
三十六系逃げるにしかず。
くるりと背を向けて逃げに入った佐助の襟首を、寸前でぐいっと引っ掴んで引き止める力がある。嫌な予感しかしないので振り向きたくもないが、首をぐいぐい絞めるこの力はすぐには離してくれそうにない。
絞殺する気なんじゃねえだろうな、と怖い想像をしながら佐助は仕方なく振り向いた。小首を傾げて、できるだけ可愛い演出を狙ってみる。

「帰っちゃ駄目?」

小太郎は笑っていた。
にぃっこりと、疚しいところなんて一つもありませんよ。とアピールしまくった爽やかな笑顔で笑っていた。でも目が笑っていなかった。奥さんは、旦那が唯一といってもいい友人とじゃれてるだけだと思っているので、にこにこと見守っているだけだ。

あ、死ぬな。

職業柄、こういう感には結構鋭い。
首根っこを掴まれたまま、佐助はずるずると外に引っ張られていく。早く帰ってきてね、と笑顔で手を振る政を置いて、扉がバタンと音を立てて閉まった。
二度と平和な世界へ戻れないんじゃないかとか、そういう暗い気持ちにさせる音だった。




















十数分後。
佐助が置いていったケーキを嬉しそうに切り分けている政を見ながら、小太郎は小さくため息をついていた。手の甲にまだ返り血が付いていることに気付いて、こっそりと拭う。
まさか、自分のいない間に佐助が政と接触を図っていたとは。人妻が好きだ、と佐助が告白したときからもっと警戒しておくべきだった。政は他人からの好意や劣情というものに酷く疎い。彼女にその気はなくとも、いつの間にかに相手に流されて洒落にならないことになっていた可能性もあるのだ。
自分の甘さに後悔の念を強くし、改めて彼女を守ろうという決意を強くする。
夫の決意など気づきもせず、政がケーキを皿に乗せて小太郎に差し出してくれる。
安心しきった、油断だらけの可愛い仕草。小太郎が必死の思いで手に入れた大切なもの。

他の男に見せてなるものか。

皿ではなく、政の手首を取って指に付いていた生クリームを舐り取る。面白いように顔を赤くした新妻に、小太郎は目を細めて幸せを噛み締める。





(とりあえず、今夜は寝かせない方針で)











07.2/24