寝室に置かれた鏡台の前で、政は難しい顔をして鏡を睨んでいた。
「Jesus……やっぱり残ってやがる」
忌々しいと言わんばかりに舌打ちをしながら、指でなぞった先は彼女の首筋。
昨日までには無かった赤い痣がくっきりとついていた。別段痛くも痒くも無いが、政の白い肌に映えてちょっとばかしその存在は浮いている。
襟の開いた服をいれば、昨日政に何があったのか。何をされたのか。一目でわかる人はわかってしまうだろう。
元凶である政の旦那は、呑気に後ろのベッドで朝寝をしている。幸せそうな顔しやがってこの野郎!と政は小太郎を睨みつけるが、いつものように前髪で顔が隠れているのでどんな顔で寝ているのかこの角度からは全く見えない。
寝ているように見えて、実はしっかり起きている時もあるから油断ができなかったりする。今はどっちでも構わないが。
ここだけの話し、小太郎には噛み癖があった。考え事をしているのか知らないが、暇なとき手持ち無沙汰なときに気付けばカリカリやっているのを見かける。ボールペンやクッション、携帯、なぜかリモコンまでボロボロになっていた時は唖然とした。結婚してから初めて知った、意外な一面だ。政にも噛み付く。甘噛みだと惚気るにはちときつい。この前は噛まれた耳から血が出た。正座させて説教をしたら数が減ったが、それでも小太郎は噛むのを止めない。しかも政が抵抗できないタイミングを狙うようになり、より狡猾になったともいえる。しかし噛まなければ噛まないで、どこか身体の調子が悪いのかと心配にもなるし、もしかしたら自分に飽きたんじゃないかと不安にも……いやいやそれはないそれはない。
とにかく、腕や足ならばまだ諦めもつくが、首筋に痕を残されると着る服が限られてしまうので困るのだ。
慌てて首を左右に振っていると、明るいチャイムの音が部屋に響いた。お客さんだ。
政は急いでジーンズの上からタートルネックのセーターを着込む。もちろん、首の痣が見えないようにだ。今日は外出の予定もないし、簡単な服でも構うまい。呼び鈴に起こされたのか、もぞもぞと布団に潜り込む夫(起きる気0)を上から引っ叩いてから玄関に向かう。
「はいはーい、どちら様ですかっと」
「こんちはー」
上の階の千華子だった。政が彼女の夫の元就と付き合いが長いおかげで交流があり、馬も合うのでこうして元就抜きでもよくお互いの家を行き来している。
千華子は特徴的な銀髪を揺らして、にかっと明るい笑顔を浮かべると
「これ、前に借りたゲーム返そうと思って。すっごい面白かった!でも政には悪いけど、あたしはバージル派だなあ」
「ええー、残念。絶対気に入ってもらえると思ったの……に」
釣られて笑顔を浮かべていた政が、頬を引き攣らせた。
朝からありえないものを見せ付けられた気分だった。
「ん、どしたの?何かあった?」
「……wait.wait.ちょーっと待ってろ、チカ」
というか見せつけられた。
右手を上げて「ちょっと待った」のポーズをとると、千華子を置いて一旦寝室に帰る。
布団を被って蓑虫になってる小太郎を無視して目当てのものを引っ掴むと、玄関に戻ってそれを千華子に差し出した。
「アンタ、今日は外に出るときこれ付けてなさい」
「え、スカーフ?なんで?貰うようなことしたっけ?」
「いいから。絶対、絶対外さないように。お願いだから」
淡いグリーンのスカーフを千華子の首に巻きつけてやると、はにかんだ笑顔で「ありがとう」とお礼を言われる。細かいことは気にしない、人の好意は素直に受ける、それが彼女の美徳で人に好かれる所以だ。



でもここまで素直なのは問題だろう。



千華子の首にくっきりと残った縄の痕(理由は怖くてとても聞けない)をスカーフで隠し、セーターに隠れた痣を無意識でなぞりながら政はしみじみと思った。


よかった。ウチはまだ普通だ。


五十歩百歩ということわざはこの際忘れておく。




















後日。
政が貸したスカーフを返しに、また千華子が遊びに来た。
千華子をリビングまで通し、彼女好みの紅茶を淹れる。
ちなみに、小太郎は妻の御所望であるメロンパンとジャンプの買い出しに出かけていて留守である。
「わざわざ気を使ってくれなくてもいいのに」
洗濯されて綺麗に四つ折りされたスカーフを差し出されて、政は嬉しそうに千華子へ笑いかける。



そして、今度は千華子の手首にきゅっと巻きつけた。



この擦り傷は、もしかして手錠でもかけられたのかしら。
サドな友人が喜びそうな怪我の原因を思い浮かべて、笑顔というよりは泣き笑いのような顔になった。
励ますように、ギュッとテーブルの上で千華子の手を握りしめる。
「……千華子。嫌だったらいつでも遠慮なく言っていいんだよ?」
「え、何が?」
「そりゃあ元就は怖いかもしれないけど、あたしは絶対チカの味方だから。警察にだって一緒に行ってあげるから」
「だから何が」
「それが」
スカーフで隠した手首を示すと、千華子は不思議そうに視線を下ろして右腕を見つめる。そしてようやく政のいう意味がわかったのか、恥ずかしそうにぽっと顔を赤らめた。
遅ぇよ。
「いや、その、政が心配してくれるのは嬉しいんだけど、これはそういうのじゃなくて。愛されてる証拠っていうか、仕事で忙しい分元就が構ってくれるのが嬉しくって……」
「……それ、惚気?」
もじもじもじ、と大きな身体を全部使って目の前で照れてみせる友人をどう扱っていいのか、政は大いに判断に迷った。そりゃあ元就は昔から得体のしれないところがあったが、それをすべて許容している千華子の度量の大きさにある意味感心する。世の中には自分が知らない世界がたくさんあるのだなあと、政はしみじみと実感した。否定はしないが、そういう趣向の世界は遠くから眺めるだけにしておきたいものだ。
死んだ魚のような目になりながらも、しかし釘だけはしっかり刺しておく。
「でもね、こう何度も目立つ場所にそんな傷や痣があるとこっちは目のやりどころに困るんだけど」
せめて外見だけは普通を保ってほしい。普通の格好をしててほしい。
譲歩に譲歩を重ねての提案だったが、千華子にきょとんとした顔をされてしまった。





「政だって付けてるじゃん」





「はぁ!?」
「あー、後ろだから見えないか。ほらここ、首んとこ。そらもう、赤いのがくっきりと」
慌てて首筋に手を回すが、千華子の指差した場所は自分ではよく見えないところにある。
鏡を見るため、政が椅子を蹴倒して浴室に走るのを紅茶を飲みながら千華子が見守っていると玄関から物音が聞こえてきた。旦那さんのお帰りらしい。
「こんちわー。お邪魔してます」
愛妻の親しい友人にも、小太郎は無表情無愛想を貫く男である。代わりに、あいさつとして30度に頭を下げた。彼にとってはこれでもオーバーリアクションである。これが佐助なら視線も向けない。
片手にぶら下げてるコンビニ袋の中には、メロンパンと赤丸ジャンプが入っていた。

「小太郎おおっ!テメエあれだけ痕付けるなっつってただろうがぁ!!」

小太郎が自室に引っ込むと同時、まるでこの世のものとは思えぬ政の怒鳴り声がマンションに響き渡る。
続いて物を引っ叩いたり殴ったり言い訳は聞かないとか信じらんないとかいう涙交じりの恨み事。
滅多に言葉を話さない彼女の夫は、きっと一生懸命態度で謝罪を表して彼女を宥めにかかっていることだろう。


「仲良いよなあ……」


右手に巻いたスカーフを愛しげに撫で、リビングの千華子はほうっとため息をつく。
親しい仲とはいえ、客がいる時に盛大な夫婦喧嘩をやらかす風魔夫婦が彼女は夫の次の次くらいに大好きだった。



















07.5/4
なぜか続いている風政夫妻。
小太郎に噛み癖があったらいいなあと以前から思ってました。伊達さん相手に甘噛みの練習したらいいよ。