信号が青なら






じゃらじゃらとベルトに引っ掛けている中から一本、金色の鎖を選んで葉佩は手元へ引き寄せる。腕に引かれて、ジーンズのコインポケットから金色の懐中時計が葉佩の手にこぼれ落ちた。
わざとらしいまでに古めかしい、アンティーク調の針が黙々と時を刻んでいるそれは、先日バザールで衝動買いした安物の割り時間に怖ろしく正確だった。日差にそれほど狂いが無い。
時計が知らせる時刻をじっと眺めて、これは急いだ方がいいなと葉佩は考える。
待ち合わせには未だ時間がある。けれど余裕がなかったからだ。
二人で決めた待ち合わせの場所に彼女がたどり着くには、まだまだ時間がかかる。下手をすれば彼を待たせてしまうことになるかもしれない。
それは悲しい。
言葉にする代わり、はあ、と憂鬱そうにため息をつく。
久しぶりのデートなのだから、彼にはずっと笑っていてもらわなければ。

(駅からは走っていこう)

そう結論付けると、懐中時計を仕舞う。
目的の駅に着くまであと20分弱。20分もかかる。急いでいる時ほど、何もしない時間がたまらなくもどかしい。
けれど、この穏やかな振動に揺られる身は電車が止まるまで出来ることなど何も無い。窓から見える景色。灰色の空、素朴な造りの建物。目の前を流れては通り過ぎていく様をじっと眺めるだけだ。



早く。一刻でも早く着け。
自分でも可笑しいくらいに気ばかりが焦る。



窓枠に肘を乗せて頬杖をつくと、指に冷たい金属が触れた。
両耳を飾るゴールドのシンプルなピアス。彼が見立ててくれた。
葉佩は、どちらかというとゴールドよりシルバーのアクセサリーを好む。
ベルトのチェーン、指輪、ネックレス、アンクレット。動くたびに重なり合って、じゃらじゃらと音が鳴るくらいたくさん付けているそれらのほとんどが月の光の様に冷たい銀色だ。


「デモ、我ガ王ニハ強ク輝ク太陽ノ方ガズット似合テマス」
「……アア、ヤパーリ僕ガ思ッタトオリ!トテモ素敵デス、我ガ王!」


小粒の金色が葉佩の耳を飾った時、彼が浮かべた嬉しそうな顔といったら!
猫みたいに黒い目を細めて、まっすぐに隠すことなく喜びの感情を表現する。思わずこちらも微笑みたくなるような笑み。
そう、まるで太陽の様に明るくて胸の奥が熱くなる素敵な笑顔だった。
きっと一生忘れることは無いだろう。つーか、忘れてなるものか。金色が好きになった瞬間だ。

(会いたいなあ)

言葉にする代わり、ほう、と切なそうにため息をついた。
愛しげにピアスを一撫ぜすると、ひたすら駅への到着を待つ。















駅に到達し、電車の扉が開かれると同時に葉佩はひらりとホームへ飛び降りた。
ホームに響く無機質なアナウンス。電車の到着、出発、目的地を淡々と伝える声を背にして全力疾走。ゴールは、とりあえず駅の中だから改札口。
当たり前の話だが、駅には様々な人間が集まって来る。例えば旅行カバンを抱えた観光客とか、自慢のファッションに身を包んだ学生。ぴしっとスーツに身を固めた神経質そうなサラリーマン等。
チャイニーズ、と何故だか嬉しそうに葉佩を指差した若い観光客二人の横をさっさと通り抜けると階段を一気に駆け上がる。
段を踏みつける度、ガツンガツンと履いているブーツが大きな音を立てて耳障りだったが気にしない。時間に間に合うことが一番重要だ。
改札口を抜けるとき、ちらっと横目で駅の時計を仰ぎ見た。2時と、大体55分。

約束の時間まで、あと5分。

駅から約束の場所までは、確か徒歩で10分ほどかかるとロゼッタ支部の受付嬢が教えてくれた。
本当に小さな用事を終わらせるだけだったのに、前に座ってた奴が必要な書類を持ってきていなかったため(しかもそのまま押し通そうとするので)余計な時間を食ってしまった数時間前。
傍目にもわかるほど苛々している葉佩の愚痴に、彼女は苦笑しながらも付き合ってくれたのだ。
そうね。駅から大通りを歩けばいいから、10分くらい歩けば着くと思うわ。

(……余裕で間に合わねえし)

車なら間に合うだろうか。
外に出て葉佩はタクシーを探したが、次の瞬間には無理だと舌を打った。
交通量が多すぎる。渋滞のときに車を使ったって、財布から消える金額が増えるだけだ。

(やっぱり、走るしかないか)

小さなため息。そして深呼吸。抱えている荷物を走りやすいように持ち直す。
カツン、とブーツの音がアスファルトに響く。
その足を出来るだけ遠くへ、目的の地へ近くなるように動かして、葉佩は走り出した。

10分マイナス5分、イコール5分。

たった5分の遅刻に、どうしてここまで必死になるのか。
わかりきった答えに、走る速度を落とさないまま葉佩は小さく笑った。



だって、久しぶりなんだ。
5分でさえ惜しいと思えるほど、久しぶりに会える、のに。



《宝探し屋》とは、酷く不安定で不規則で危険な職業だ。
ボーナスも有給もないし、依頼によっては1年間音信不通になることも異常ではない。
音信不通のまま、一生帰ってこない事だってあるのだ。葉佩は未だ死にたくないし、死ぬつもりも無い。だから遺跡で生き残る術をたくさん身に付けてきたけれど、生きて帰れる保障なんていつもどこにもない。
奥に眠る叡智を、秘宝を誰にも奪われないよう数多の罠が用意された遺跡は思わずため息が出そうなほど緻密な計算によって作り出された一種の芸術品だ。隠す秘宝はそれぞれ違うから、どの遺跡も全く構造が違う。全く同じ遺跡の存在はあり得ない。
こうすれば大丈夫、という法則を作りようが無い世界。
だからこそ、命を掛けて罠を掻い潜る時の高揚感、仕事を達成し、遺跡から出て太陽の陽を一身に浴びたときの満足感と開放感は並みの比じゃない。

その誘惑に負けて、一体何人の《宝探し屋》が帰らぬ人になったか。

これが最後になるかも知れない。
そんな湿っぽい風に考えたことは一度も無いけれど、とにかく仕事のあとに彼と二人で時間を過ごすことは、葉佩にとって例え1分1秒の僅かな時間でも貴重な宝石のように美しく大事なことだった。
彼とまともな連絡(電話だったけれど)が取れたのが半年振りで、しかも明日にはまた仕事のため他国に飛び立たねばならないことも理由の一つだった。





目の前の信号が点滅する。
走り抜けようと思った瞬間、それは赤へと変わって目まぐるしい数の車が葉佩の目の前を過ぎていく。
舗道が長い分、車の数も多い。下手な飛び出しは命の危険である。
捕まってしまった。苛々と足踏みをしながら、葉佩は走る代わりに懐中時計を取り出した。
約束の時間から、既に3分過ぎている。遅刻決定。絶望的だ。
今まで彼との約束を破ったことが無いだけに、いっそう辛いものがある。
時間になっても現れない葉佩を、彼は心配するに違いない。想像するだけで胸がはちきれそうだ。早く顔を見せて彼を安心させてあげたい。
悲しい思いや辛いことやをさせたいわけじゃないのだ。


――九耀サン。


ああ、ほら。とうとう幻聴まで聞こえるようになってしまった。
彼はいつも葉佩のことを「我が王」と呼ぶ。
名前で呼んで欲しいと、呼び捨てで構わないと何度も言うのに、どうしても彼の舌には馴染まないようだった。
こんな風に、やや躊躇いがちな声音で彼女の下の名前を呼ぶ。



九耀サン。



しっかりしてくれ、自分。走った所為でとうに乱れまくった髪をがりがりと掻き毟る。
半年振りに会えるからといって、これは少し不味いんじゃないだろうか。ここは道の真ん中だぞ。時と場所くらい考えようぜ。それに本物でない声を聞いてどうしろというんだ。





「我ガ王!」





幻聴じゃなかった。
落としていた視線をぱっと上げる。
歩道の向こう側、手持ち無沙汰に信号が変わるのを待っている人たち。
その最前列に彼がいた。
褐色の肌。黒い髪。遠くからでも一目でムスリムと判る、長くて白い上着。
大きく手を何度も振ってこちらへ語りかけている。目が合うと、ぱっと光が灯ったように笑ってくれた。
彼が、自分に笑いかけている。
明るく、生き生きとした、輝く様な。見ているだけで胸の奥がじんと熱くなる笑顔。
そう……葉佩は考える。一言で形容するなら、絶対この言葉が似合うと考えたのだ。



彼は、太陽だ。
埃だらけで遺跡から出てきた俺を照らしてくれる、たった一人の太陽。



眩しさに目を細めるように、葉佩も笑って声を上げた。
舗道を挟んで手を振り合う二人組。周りの視線なんか考えもしなかった。










「トト!」










ああ、早く信号が青にならないものか。
信号が青だったら、俺は今すぐにでもあの太陽のような愛しい人を抱きしめられるのに!










1分後には舗道の真ん中で愛を叫ぶ二人が見られます。
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インスタントカフェ

05.4/8