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1分間70円






目が眩みそうなほど夕焼け色が眩しい空に、ゆるゆるとした艶のある歌が流れては消える。
放課後が近づき、人気の無くなった校舎。昼間にはあれだけ人が多く騒がしかった癖、今はしんと音の無い静かな裏庭には彼女の歌声以外何も聞こえてこない。
海の外で育った彼女は、いつも彼の知らない外国の歌を歌う。
それが不思議で新鮮で、馴染みの良い澄んだ声と重なって耳に飽きなかった。

だから邪魔をするつもりは無かったのだが、彼女が人の気配に気付いてしまったようだった。
穏やかに澄み切った旋律は、彼女が振り向いた途端途切れてすぐに余韻も遺さず消えてしまう。

惜しいことをしたと、神鳳は内心ため息をついた。
それだけ綺麗な歌だと思っていたのだ。葉佩が困ったように眉を寄せ、結局誤魔化すように苦笑する。夕陽が照明となっていなければ、きっと赤く染まっていただろうその顔を見られたのは役得だと思ったけれど。彼女は《遺跡》以外の物事に限り、案外予想外の出来事に弱い。
安っぽいベンチの背もたれの上に両腕を乗せ、先程とは違った年相応の声を上げる。

「いるならいるって言ってよ、神鳳」
「すいません。九耀さんがあまりにも楽しそうに歌っていたものですから、つい」
「つい、ってさー、神鳳、本当人が悪い」

ふい、と顔を背けて拗ねてみせる、子供のような顔に苦笑した。聞かれたくないのなら学校で歌わなければいいと思ったけれど口には出さない。それで二度と彼女の歌が聴けなくなるのは勿体ないことだったし、歌を聴かれたことでなく他のことに拗ねているようにも見える。

「それはそうと、もうすぐ下校のチャイムが鳴りますけれど」
「あ、うん。ごめんね。甲太郎が帰ったらすぐ出てくから」
「なるほど、そういうことでしたか」
「そういうこと」

遅刻サボりの常習犯である皆守が職員室へ呼び出されるのはいつものことだ。ただ最近変わったことといえば、その呼び出しに素直に応じる回数が増えたというくらいか。

にこりと笑って葉佩は神鳳に手を招く。
待ち人が来るまでの時間つぶしに選ばれたらしい。

(この僕が、暇つぶし)

神鳳の眉が煩わしげに上げったけれど、常人ならば恐怖に慄くその返事を葉佩は全然気にしなかった。気付いているのかいないのか。彼女は相手の都合を気にしないほど不遜な人ではないはずだけれど。
ふう、と故意に音を出してため息をつく。部活は引退、生徒会も引継ぎ等あるがどうせ何とでもなる程度の用事だ。今すぐ焦ってやる必要も無い。
仕方ないですねと、苦笑を浮かべて頷いてやると心底嬉しそうな笑顔が返ってきた。

「ですが、一つ条件があります」
「なに?」
「もう一度、歌ってください」

黒目がちの大きな瞳が数度瞬き、ばちりと、音が聞こえてくるのではと思うほど長い睫が震える。
彼女が座ってこちらを見上げている分、余計に幼い印象を受けた。

「……リクエストされるとは思ってなかったな」

呟いて、苦笑。
次いで上げた顔はいつものように飄々とした悪戯っ子のような笑顔で、先程拗ねたのもこちらにしてやられたという思いが強かったからなのだろう。
彼女はいつも驚いてばかりいるが、同時に立ち直りも早いのだ。

「70円貸してくれたら考えたげる」
「70円?」
「今、50円しか持ってないんだ」

そうして葉佩が指差した先には、少し古ぼけた自動販売機。
それくらいのことならば。


「……70円でも150円でも、奢ってあげますよ」


缶ジュースでもペットボトルでもお好きなものを。
口に弓を引いて差し出した手を、葉佩はそれはそれは恭しく受け取って優雅に立ち上がる。
大きな舞台の中央で華麗なドレスに身を包み、つんと気取ってみればさぞかし似合うだろう。

「俺の歌、そんなに気に入った?」
「そうですね。とても綺歌な声でしたよ」

忘れたくないと願うほど、とても美しい声でした。
(うっかり惚れてしまいそうなほどね)










「九耀」

妙に不機嫌な声に、葉佩の開いたばかりの口がまた閉ざされた。
不機嫌なのはこっちの方だと神鳳はため息を吐く。振り向けば想像の通り、収まりの悪い髪をそのままにした男が無愛想な面で立っている。
タイムオーバー。

「おかえり。長かったねー」
「こんにちは、皆守君」
「……ああ」

挨拶をしてやれば、一応という態で返事が返ってきた。何故ここにいるのかと、胡乱な視線が問うている。
慣れているからにこやかに流した。

「先程、偶然九耀さんとお会いしまして」
「ジュース買ってもらっちゃったー」
「子供か。お前は」

心底呆れた声と、自慢げに缶ジュースを見せびらかす葉佩の額を小突く音。
零れなければいいのだが、なんてどうでもいいことを考える。彼女はまだ一口しか飲んでいなかったから勿体ない。
葉佩の腕を引っ張り引き寄せて、皆守は神鳳の目をひたと見据えた。神鳳はにこやかに受け止める。

「悪かったな」
「何がです?」
「コイツが迷惑をかけた」
「……ああ。いや、大変ですねえ、保護者というのも?」
「パパー。おなか減ったー」
「悪乗りすんな、馬鹿。帰るぞ」

今度は叩かれた。じゃれ合ってるだけなのは知っているから、制止しようとは思わない。苛立たしくはあるが。
大仰しい溜息をついて、皆守はさっさと身を翻す。
その背中を葉佩は追いかけようとして、足を止めた。
勢いよくこちらへ振り返った際に、短く細い髪がさらりと揺れて夕陽を弾く。

「また今度ね」

神鳳が70円払ったジュースを掲げて、彼女は笑った。

「また今度」

何度か手を振って、神鳳は二人を見送った。





ジュースのお礼にと、何を歌おうか二人で笑いながら過ごした僅かな時間。
紡がれたばかりの旋律は、また消えてなくなってしまった。










「……また今度、か」

二人の消えた校舎を見遣りながら、僅かに残った音を頼りに、神鳳は目を閉じて旋律を思い返す。
夕陽に似合う、とても綺麗な歌だった。
気だるい空気に染み渡るような、深みのある穏やかで心地の良い声。
振り返った笑顔が、とても魅力的な笑顔だった。
次があることを少しも疑わない、綺麗な黒目を細めて浮かべた綺麗な表情。
財布の中から消えた70円、それから時間にしてたった1分の出来事でしかなかったけれど。

(ああ、やはり僕は)

彼女のことが好きなんでしょうねと、静かな声は言葉になる前に黄昏の中へ融けて消えていく。










葉佩も神鳳に惚れてるかもしれないし、そうでないかもしれない(どっち)
お題提供→インスタントカフェ

06.5/6