fragrance
保健室の扉を開くと、途端に世界が変わったように思えるのは自分だけだろうか。
漂う薬品の匂い。教室、廊下、校庭よりも静かな、時には静か過ぎる空気。それ故に周りの喧騒が伝わりやすく、一層その静けさを強調している。世界が変わるというより、世界と切り離されているといった方が合っているのかもしれない。
それらを嫌う人もいるだろうが、生憎好きとも嫌いとも考えたことが取手にはない。
扉をくぐり、辺りを見回す。保健室の主は不在だった。
いくつか置かれているベッドの内、一つがカーテンで隠してある。鍵が掛かっていなかったのは、その中で眠っている生徒のためだろう。
しかし劉麗がいないのは困った。
昨日の夜から頭痛が止まないのだ。しばらくすれば治まると思っていたのに、一向に治らない。薬を貰いたいのだが、いくら薬棚の場所を知っているとはいえ勝手に漁るのは申し訳ない気がする。
ここで彼女が戻ってくるのを待っているか、それとも探しに行くか。
その場に立ち竦んで、しばし悩む。
じゃらっ
悩んでいると、小さく音を立ててカーテンが揺れた。
ベッドの周りを囲んでいる、ベージュ色のカーテンだ。中で何かが動く音がする。
……自分が来たから、起こしてしまったのだろうか?
またもや申し訳なく思っていると、細い手がカーテンの合間から伸びてきた。
鬱陶しそうにそれを払いのけ、繊手の持ち主は至極だるそうにベッドに腰掛ける。知っている顔に取手は驚いた。
「くっちゃん」
「………………鎌治?」
あだ名を呼ばれて葉佩はゆっくりと振り返ると、取手の顔を見て不思議そうに首をかしげた。
寝起き独特の、焦点が怪しい目に掠れた声。
いつもの明朗で意志の強さが窺える表情とはあまりの違いに、葉佩の寝起きの悪さは知っていたことだけど、少し笑う。
「寝てたんだね。気がつかなかった」
「まあねー……………今、何時」
「3時間目が終わったところだよ」
「3……3……数学?うあー、国語休んじゃったよ。やばいなー……」
「何かあったの?」
「や、そうじゃないんだけど、雛先生に、もう少し真面目に勉強してくれって言われてさー。成績普通だと思ってたんだけどさー……へこむよなー……」
俯いてぼさぼさになったベリーショートの黒髪を、手櫛でおざなりに整える。
更に二言三言何かを言っていたようだが、手で口を覆い、あくびをしながらの言葉だったので後半はよく聞き取れなかった。
おそらく、昨日も夜通し例の遺跡に潜っていたのだろう。面倒だ面倒だと言っている割に、葉佩の天香での生活は全く遺跡を中心にしたものだ。
「鎌治こそどうしたの?具合が悪いとか?」
「う、うん。少し頭が痛くて」
「そっか……」
寝起きは悪いが、目が覚めるのは早い。
取手の言葉に、葉佩はたちまち心配そうな顔を浮かべた。
ベッドから離れると、10cm以上も身長差のある取手の顔を覗き込み、額に手を当てる。ひんやりとした温度が心地よかったが、熱くなった自分の顔を変に思われないかと思うと気恥ずかしかった。
「……熱があるね」
「そ、そうかな」
「ルイ先生は?」
「どこかに、出かけてるみたい」
「じゃあ、帰ってくるまでベッドで寝ときなよ。立ってても辛いだけだろ」
にこりと、葉佩は同意を求めるように微笑んだ。
気遣ってくれるのが嬉しくて、取手も笑い返そうとする。
ふわり
笑い返そうとした、その時だった。
髪から、それとも制服からだろうか。
保健室というイメージからは連想できない、薬品とは違った匂いが、そっと。
微かに取手の頬を掠めて消えた。
この香りを、自分はよく知っている。
「鎌治?」
「な、何でもないよ」
訝しげな声。必死で平静を装って、やっと笑う。
何でもないと、そう思ってくれただろうか。自分は笑えているだろうか。
「何でもないんだ。君の言うとおり、寝て待っていることにするよ。ありがとう」
「……おかまいなく」
葉佩はしばらく取手を見つめていたが、それだけ言って微笑んだ。
ただ、もうすぐ授業が始まるというのに保健室を去る気はないようだった。
面倒だから、午前の授業は自主休講する。
朗らかにそう言ってのけ、今は取手が休む寝台に腰を下ろしている。
先ほど言いよどんだことを、体調が悪いからと判断したのかもしれない。
取手が眠るまでそこから動くつもりはないようだ。
ふと、偶然葉佩の手が取手の髪に触れる。それはすぐに離れたが、何故か今度は意思を持って撫でられてしまった。指が微かでも触れる度、緩く引っ張られる度に葉佩の繊手を意識してしまって顔から火が出そうになる。
「く、くっちゃん……その、恥ずかしいんだけど」
「気にしない気にしない」
葉佩は笑うだけで、一向に聞いてくれない。
気に入ったらしかった。
漆黒の、少しぱさついた取手の髪はすぐに絡まり、引っかかってもよさそうなものだが不思議と葉佩の指はするりと通り抜けていく。面白がるような声に似合わず、それは小川を流れる、緩やかな水のように自然で心地がいい。
取手は抵抗するのを諦めると、湧き上がる僅かな眠気に任せてゆっくり目を伏せた。
(……昔を思い出すな)
葉佩の前で姉の話をすると、何故か急に不機嫌になるから口にはしないけれど。
幼い頃、姉にも髪を撫でてもらったことがある。
褒めてもらった時、慰めてもらった時に、笑って髪を撫でてくれた。葉佩とは違ってすぐ髪をぐしゃぐしゃにしてしまったが、それも今となっては良い思い出だ。
良い思い出と、思えるようになった。
ふわり
遠くにいたら気づかないが、近づいて、近づいて、やっと知ることができる。
葉佩が漂わせているのは、それほどさりげなく、僅かな香りだった。
だからこそ、それが何の匂いかと気づいたときに受ける衝撃は大きい。
だって、全く同じ香りを漂わせている人を取手は知っているのだ。
「……くっちゃん」
「うん?」
「今日も、遺跡に行くのかい?」
「行くよ」
迷いのない、真直ぐな声。
この声に自分は助けられた。
だから、今度は自分が力になりたいと思う。傍にいたいと願っている。
「僕も、連れて行ってくれないかな」
「駄目」
「………………」
「具合が悪い人を連れて行けるわけないだろうが。病人は大人しく寝てな」
「でもっ、僕は……」
いま自分が感じているのは、もしかしたら焦りなのだろうか。
耐え切れなくて、横たえていた身体を起こす。葉佩の指が離れた。
「僕は、君の役に立ちたいんだ……」
「……鎌治」
葉佩の、言い聞かせるような、少し低めの声。
髪を弄っていたその手が伸ばされ、ひたりと取手の目が覆われた。
不快感はない。ただ、視界を遮られて葉佩の声がより深く染み入ってくる。
叱咤されると思ったのに、注がれた言葉は予想よりずっと暖かくて意外なものだった。
「俺はね……きっと、お前が思っている以上にお前に助けられてる」
「……え?」
「お前は十分すぎるほど役に立ってくれてる。
恩を受けて、返さなきゃいけないのは俺のほうなんだよ。
だから、俺を命の恩人とか、助けてくれたとか、そんなこと考えなくていい。忘れてしまえ。
そう言ってくれるのは嬉しいけど、でも、今度は俺に束縛されているのかと思うと悲しい」
葉佩は、今どんな顔をして言の葉を紡いでいるのだろう。
一体自分をどんな目で見ているのだろう。
(そうじゃない。そうじゃないんだ)
命の恩人とか、貸しとか借りとか、今はそんなことどうでもいい。
(あなたは、僕にとってそれ以上に大切で、大事すぎる人なんだ)
何と言えば理解してくれるのかわからなくて、無言で何度も頭を振る。
上手く言葉にできない。言葉にすれば壊れてしまいそうで、怖い。
「……無理はしないでくれ、鎌治」
ふわり
香る、甘くて優雅な紫の花。よく知っている。
自分もアロマを吸ってみようか。ふと、そんなことを考えた。
香りのことはよく知らないが、シトラス系などどうだろう。爽やかで清涼感があり、仄かに甘い。
葉佩も、きっと気に入ってくれる。
気に入って、それに慣れてしまえば。
そうすれば、いつか葉佩はその香りを纏ってくれるのだろうか?
「元気になったら、嫌でも付き合ってもらうからさ」
声と同時に、掌が外される。
葉佩はいつものように明るく笑っていて、少し首が赤かった。
掛けられた言葉は、どれも温かくて本当に心地よい。嬉しくてたまらない。
だからなのだろうか。こんなにも惨めな気分になるのは。
葉佩の手は優しすぎて、泣くことだけはできなかったけれど。
ふわり
微かなラベンダーの香りが、保健室を漂って消える。
睡眠ネタその弐。そこでぎゅっと抱きしめて告白すれば恋愛EDまっしぐらなのにね!
04.10/14
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