sleeping
「甲太郎」
名前を呼ばれて、顔を上げると葉佩が皆守に背を向けて立っていた。
「長かったね……やっとここまで来たよ」
「何がだ?」
足を前に動かして、葉佩と並ぶ。
皆守のほうが少しだけ高いくらいで二人の身長にあまり差はない。それなのに(それともだからだろうか?)皆守は葉佩が今どんな表情をしているのか知りたかったけれど、どうやっても真っ黒な目を覆い隠している彼女の睫の長さだけが強く印象に残ってしまう。
「あと少しで、《秘宝》を手に入れることが出来るんだ」
嬉しそうな声。だとしたら笑っているのだろう。
すい、と真っ直ぐに上げた腕がぴんと伸ばされた指が前方のある一点を指す。
「ほら、向こうに扉が二つあるだろう?右か左、そのどちらかに《秘宝》が眠ってる」
見渡す限り暗い闇の中、ぽっかりとその場所だけ存在を強調している二つの扉。
全く同じつくり、同じ大きさで、区別がつかない。右にあるか左にあるか、それだけの違いだ。
「間違えば、多分俺は死んでしまうんだろうね」
葉佩九耀は、高校生である以前に《宝探し屋》だ。
死ぬかもしれないという、穏やかでない台詞に皆守は今更ではあるがそのことを思い出す。
面倒な奴だ。
そう思いながら、アロマを吹かす。
「甲太郎はどっちだと思う?」
「あのな、俺が知るわけ……」
知るわけないだろう。続けようとして、口を噤む。
理由は簡単、皆守が答えを知っているからだ。
どちらの扉に全ての真実が記された《秘宝》が隠されていて、どちらの扉に怖ろしい化け物が牙を研いで潜んでいるのか、皆守はよく知っている。
「どう思う?俺は左が怪しいんじゃないかと睨んでるんだけど」
皆守の答え一つで、葉佩は願っていた栄光を手に入れるだろう。
皆守の言葉一つで、葉佩は訳もなく無残に食い殺されるだろう。
アロマパイプから煙が流れる。
紫色のラベンダー。すっかり慣れたラベンダーの香りが在りし日を思い出させ、決断を促す。
実の話、皆守は答える必要などない。
知らないからと、わかるわけないだろうと言い切ってしまっても、きっと葉佩は皆守を責めない。
だって葉佩は尋ねているだけで、皆守が「知っている」ということを知らないのだ。「知っている」なんて、きっと露ほども思っていない。
「……いいや」
それでも皆守は答えた。
あるいは、答えなければいけなかった。
「いいや、正解は右だ」
葉佩が目を瞬かせる。
この時彼女が何を考えていたのか、無論皆守にはわからない。
顔を見たいのに、その周りを飾る艶やかな黒髪や、自分より華奢な首筋にばかり何故か目が行って直視することが出来ない。
「そっか」
本当か?と疑うことも、何故か?と理由を問うこともしない。
ただ、頷いた言葉はどこか満足そうだった。
葉佩は皆守の傍を離れて足を運び、迷いなく当然のように右の扉を選んだ。
無意識に伸ばした皆守の腕は葉佩の指を少しだけ掠っただけで、行き場を失い虚しく降りる。
「甲太郎」
ドアノブに手を掛け、回す直前。ふと振り返って、葉佩は皆守を呼んだ。
かちりと、申し合わせたように初めて視線が重なる。
癖のない真っ直ぐな黒髪。肌理の細かい肌。整った鼻梁。長い睫。
アーモンド形の瞳が優しく細められて、珊瑚色の唇が上に弧を描く。
綺麗な笑顔だった。
アア、こいつはこんな顔をして笑うのか。
「ありがとう」
全てが曖昧なこの世界で、葉佩の声だけははっきりと耳に届いた。
そして呆気ないほど簡単に、扉は開いてしまった。
体が冷たい。
億劫であったがベッドから体を起こし、顔を拭うと自分がびっしょりと汗をかいていたことに気づく。
うなされていたのだとしたら、寮が一人部屋であることを深く感謝する。吐きだした息は、予想していたよりずっと深くて重かった。
たかが夢を見た程度でこの有様とは、情けない。
たかが夢と、笑い飛ばせない自分が皆守は酷く嫌だった。
皆守と葉佩の前に並んでいた、二つの扉。二つの道。
夢の中で、果たして自分はどちらの扉を選んだのか。
確かなことは、どちらを選んでもろくな結果にはならないだろうと言うことだ。
葉佩が遺跡の最深部にたどり着くのは、もはや時間の問題である。
その時葉佩は一体どんな顔で己を見るのか、怖ろしくて想像もしたくない。
夢のように、綺麗に笑ってくれる訳がないのだ。
目を逸らすことが出来れば、このまま何事もなく過ごすことが出来ればどんなに幸せだろう。
けれど、その時はすぐ近くまでやって来ている。
「……どうしろっていうんだ」
何もかも、全てを無かったことにするにはもう遅すぎるというのに。
睡眠ネタその四。金の斧と銀の斧。あなたはどちらを落としましたか?
2004.10/24
|