sleeping
消灯の時間もとうに過ぎた頃に夷澤が廊下を歩いていたのは、それほど大した理由があったわけじゃない。
葉佩の『夜遊び』に付き合わされて、寮に帰ってきた時間が遅かった。それだけのことだ。
だから廊下で皆守と目が合ったときは、運が悪いと舌を打ちそうになった。
はっきりいって、夷澤は皆守のことが嫌いだ。
理由は色々あるが、いつもだるそうに熟睡するしか芸のない、空気みたいにいてもいなくても全然構わないような存在のくせして生徒会の役員(自分除く)には何故か重要視されているところが特に気に食わないし、『親友』なんて尤もらしい理由をつけて、当たり前のように葉佩の一番傍にいる辺りも許せない。
どうせ、また部屋で無意味に寝過ごしていたのだろう。こんな夜遅く、薄暗い廊下に籠いっぱいの洗濯ものを抱えて立ってる皆守は何とも間抜けな格好だと夷澤は思うが、その立ち方やちょっとした振る舞いが妙に年齢異常に大人びて見えて、逆に自分が幼く見える。
そこがまたムカつく。
「苦労してるみたいだな」
「……アンタには関係ないでしょう」
その言葉は、おそらく遺跡探索のことを指しているのだろう。
夷澤の長時間歩き通しで疲労した身体、薄く砂埃の積もった制服、それに今の時刻から想像すれば簡単にその答えへ行き着く。
ただ、皆守の言いたいことはそれだけではない様な気がして(例えば夷澤が葉佩の『夜遊び』に付き合う理由とか)そう吐き捨てる。
けれど、夷澤がいくら睨んでも皆守のポーカーフェイスが崩れる事はなかった。
「まあ、頑張れよ」
それで応援しているつもりなのか。
すれ違いざまに一言。
それだけ言って悠然と去る、皆守の背中を力の限り殴り飛ばしてやりたい気持ちを無理やり押さえつける。悪態をつくだけで我慢した自分の忍耐力に心から乾杯。
軽快に鳴り始めたメールの着信音に反応して、夷澤は携帯を開く。
簡潔な文章をさっと読むと、そのまま閉じた。
言われなくても頑張ってるさ。畜生め。
葉佩の腕を引き寄せ、強く抱きしめ、その首筋に顔を埋めて温もりを感じながら、だから夷澤は大笑いしたくてたまらなかった。
(ねえ、皆守センパイ。アンタは九耀さんをこんな風に抱いたことがありますか?)
(俺はありますよ。現に今、こうして抱き合ってる。アンタよりずっと九耀さんの傍にいる!)
夷澤の背中に腕が回される。葉佩の腕だ。身体を少し離すと、目の前で彼女が少し困ったように目を細めて笑っているが、拒絶のそれではない。弓なりの口唇に己のそれを押し付ける。
角度を変えて、何度も深く口付けを交わしながらそのままベッドに押し倒した。
気に食わない一人の男のことなんて、とうに頭から完全に吹き飛んでいる。回された腕から葉佩の体温が伝わってきて、熱い。
脇腹を手のひらで撫で上げると、葉佩はくすぐったそうに身体をくねらせた。反応の良さに気を良くして、そのまま上着をたくし上げる。直射日光を浴びない引き締まった素肌は顔や腕より白く滑らかで艶かしい。吸い付くような感触に喉を小さく(本当に小さく!)鳴らす。
葉佩の腕が動いて、夷澤の頬を這う様に通り耳の上に届いた。
くん、指で眼鏡を押し上げるとそのまま遠くに放り投げてしまう。かしゃんと軽い音が後ろから聞こえて、それほど遠くに落ちたわけでもないだろうが、拾いに行く気は全くない。
右手は更に上る。髪を指で弄り、ぐしゃぐしゃにかき回す。
きっちりと整えている夷澤の髪をかき乱すのが、葉佩は好きなのだ。
非難めいた夷澤の視線に声を立てて笑うと、顔を両手で包み込むように撫でる。見つめる瞳はとろけるように甘く、熱に滲んでいる。
吸い寄せられるようにキスをした。
葉佩が愛しくて、他の事などどうでもよかった。
ぎし、とベッドがきしむ音がする。
二人の肌には透明な汗が滲んでいて、前髪が数本乱れてはりついている。
右手で必死に夷澤の背中にしがみつき、左手でシーツを強く握って体内をかき乱される痛みに耐える姿は、夷澤を扇情するには十分すぎるほどだった。
はあ、と呼吸する息が重たく熱い。
今彼女が言葉を紡いだら、どんな声をしているのだろう。
「名前、を」
何を言いたいのかわからず、葉佩はうっすらと瞳を開く。
無言の(単に声が出ないだけなのかもしれない)問いに、夷澤はもう一度口を開く。
熱に浮かされた自分の声は小さく掠れていて、余裕の無さが恨めしい。
「名前、呼んでください。オレの」
自分の名前だけを呼んで欲しい。自分だけを求めて欲しい。
汗ばむ胸や首筋に舌を這わせながら、何度もねだる。
くく、と何かが引き攣れる音が聞こえた。
笑っているのだろうか。
ねえ、ガキ扱いしないでくださいよ。
好きな人に名前を呼んで欲しいと思うのは、そんなにおかしいことですか?
ごく当たり前のことでしょう?ねえ、言ってくださいよ。
「九耀……さん」
葉佩は、確かに笑っていた。愛しむように。
潤んだ瞳を少し困ったように細めて、宛がわれた痛みに背を反らしながら、上がった声は悲鳴だったか嬌声だったか。
確かに、その言葉を口にした。
「とう、や……っ!」
その一言で十分だった。
自分を呼ぶ声。自分だけを求める声。
何かが弾ける音が聞こえて、夷澤の意識が白く乱される。
「…………っ!!」
がば、と跳ねるように身を起こせばそこは見慣れた寮の自室だった。
いつの間にか眠っていたらしい。
慌てて周囲を見回すが、部屋にいるのは夷澤一人である。葉佩はいないし、ついでにいうならベッドも乱れていない。
時計を調べたら朝の3時。道理で辺りが真っ暗なはずだ。しん、と物音一つしない静か過ぎる空間に、寝起きで混乱していた頭がゆっくりと冷えていく。
皆守と別れた後、夷澤は確かに一人で自室に戻った。もう眠ろうとベッドに転がったときも一人。そして今、起きたときも一人。
……では、今までのアレは夢だったのか。
葉佩とキスをして、ベッドの上で二人して裸で絡み合って、その、むにゃむにゃ。
寄りにも寄って、何であんな夢を見たのか。それほど欲求不満が祟っていたのだろうか。
畜生。情けねえ。
大きくため息をつくと、携帯が床に落ちているのを見つけた。
開くと、葉佩からのメールが表示されたままだ。
遺跡へ付き合ってくれたことへの感謝、最近冷えるから風邪を引かないようにとの気遣い。
どうという程のものではない。いつも定型文のように似たようなものを貰っているし、馬鹿みたいにへらへら愛想を周囲に振りまきまくっている人だから、きっと他の『バディ』にも同じメールを送っているに違いない。その程度の軽いものだ。
馬鹿馬鹿しいと舌を打って、メールを削除しようと携帯を操作する。
その手が最後の最後に躊躇って、結局そのまま残しておいてしまうのもいつものことだった。
「――だせぇ……」
吐き捨てて携帯を放り投げる。
ごとっ、と音を立てて床に落ちる精密機械には目もくれずに、寝直そうと毛布を頭から被る。けれどまたあの夢を見るのではと思うと、到底寝付けるものではなかった。
夢の中の葉佩はいつもより優しくて、胸がとても柔らかかったことを思い出す。脇腹が弱かった。本当のところはどうなのだろう。葉佩の舌は、夢のように熟れた赤色をしているのだろうか。首筋を吸い上げるとどんな声で鳴くのだろうか。そんなことを考えると、本当に眠るどころではなかった。
……ああ、情けねぇ。
学校に行く気など微塵も起きなかったが、かといって部屋に閉じこもる気にもなれず。朝靄の煙る校舎までの道のりをだらだら歩く。
実際、だるいのだ。
主に精神的な理由、更に言えば見たくも無いのに見てしまったさっきの夢のせいで。
良い夢だったが、とても良い夢だったが、それだけに目覚めた後の空しさは人一倍というか辛すぎるというか酷いというか何というか。とにかく目覚めが悪い。
「あ、夷澤だ。おはよー」
「おはよう、夷澤くん!」
後ろから掛けられた聞きなれた声に、思わずびくりと身体を震わせる。
それが誰かは振り向かなくてもわかる。わかるから振り向きたくなかった。だって、あんな夢を見た後なのだ。恥ずかしかったり申し訳なかったり、とにかく色々な理由で、彼女の顔を真正面から見ることが今は出来ない。
しかし葉佩は、夷澤のそんな理由のことなど全く知っている訳がないからいつも通りに接しようとする訳で。
八千穂に合わせていた歩幅を大きく広げて返事を返そうとしない夷澤の前に回りこむと、慌てて視線をずらす夷澤を見て面白くなさそうに眉を顰める。
「……なんか、ノリ悪い」
「べ、別にいつも通りっすよ」
「風邪でもひいた?」
小首を傾げると、夷澤の額に手を当てて熱をはかろうとする。
その首筋に夢の中で夷澤が痕を残していき、その手が夷澤の背に引っ掻き傷をつくったのだと思うと、カッと身体が熱くなり、慌てて指が届く直前それを払った。
「……っ、ガキ扱いしないでください!」
「あー、ごめんごめん」
そんなつもりはないんだけどねー。
ぱしん、と音を立てて叩かれた手をひらひらとさ迷わせながら、堪えた様子もなく笑う。
彼女がとる、こういう態度が自分を年下扱いしているように思えて仕方がないのだが、文句を言っても改善されることはないだろう。ため息がこぼれる。この人は、一体俺のことをどう思っているのか。
「おや、九耀さん」
葉佩のの軽やかな笑い声に重なった、また聞きなれた声。
神鳳がいつものように弓を大事に抱えて微笑んでいる。おはようと、交わされる朝の挨拶。
「今からですか?珍しいですね」
「今日は特別なの。くーちゃんがウチの朝練見たいっていうから」
「そうそう。やっちーの可憐な活躍をこの目に焼き付けたくってさー」
「もう、からかわないでよくーちゃん!」
「無闇に人を口説くのは止めた方が良いですよ」
「ちゃんと口説く人は選んでます!」
目の前で交わされる他愛ない会話に、浮かべる神鳳の微笑がいつもと違うことに夷澤は気づく。
神鳳とはそれなりに付き合いがあるから何となくわかってしまった。今日はいつもよりずっと穏やかで、棘が隠れていない。
特に、葉佩へ向けられたものはそれが顕著に現れている。
「……九耀さん、学校行くんじゃないんですか?」
そのことを当人は気づいているのか。葉佩は気づいていないのか。
とにかく、そうと思った途端閉じていた口を開いて会話に水を差す。
「行くよ?当たり前じゃない」
「ほら、それなら早く行きましょう!」
葉佩の腕を引っ掴むと、輪の中から引っ張り出す。
八千穂が驚いた声を上げて、神鳳の眉間に皺が寄っているような気がしたが、それが何だと言うのか。
ざまあ見ろと、むしろ大声で笑ってやりたい。
遠くから見つめるまま、何もしないまま誰かに葉佩を攫われるよりはずっとマシだ。
自分から動かないと、夢はいつまでも夢のままで終わってしまう。
それはあまりにも惨めだ。動いて、そして皆守より神鳳もずっと葉佩にとって大きな存在になってやろうじゃないか。
強引だなあと、少し困ったように目を細めて笑う葉佩のその顔が夢と全く同じ笑顔で、誰のせいだと大声で怒鳴りつけたい気分だった。
睡眠ネタ伍。ごめん、チェリー(謝ってないだろ、お前)
04.10/29
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