180度の意地
「あー……やってらんねえ」
アパートのベランダにもたれかかると、高龍はため息の代わりに紫煙を吐く。
雪に近い小雨がぱらぱらと降る外は寒く、手足が悴んでぎこちないが暖かい部屋に戻る気にはどうしてもまだなれない。
部屋に戻れば、暖房と一緒に英語の問題集がにこやかに両手を広げて待っているのだ。
センターが終わって一番嫌いな数学とはおさらばすることができたが、まだまだ受験生に安息の日々は来ないというわけだ。
いっそ京一みたく中国に出て行けばよかったか……などと遠くを見ながら考えることも一度や二度ではないが、なんだか逃げてるみたいで嫌だった。
大学に進学することは真神に来る前から夢見ていたし、今まで大変だったからこそ平穏無事に暮らしてみたい。そういう思いが強い。
けれどやっぱり嫌いなものは嫌いで、少しだけ、ほんの少しだけ現実逃避。
それらしい理屈をもっともらしくつけると、高龍は煙草を吸って真っ暗な空を見上げる。
現実から遠ざかっていれば、必然未来や過去に思いを馳せてしまう。
今回は後者。自分が平和に憧れる原因をつくった張本人。
紅の。
――この男がいなければ、例えば自分は真神に転入することも貴重な放課後を化け物退治に費やされて勉強不足に泣くこともなかった。
「ぜーんぶ、お前のせいだぞ」
行く先々で厄介な事件に巻き込まれたのも、そこらの男より男勝りに育ったのも、父親の自称友人がヒゲソバなのも、犬神先生に捕まってさやかちゃんのコンサートに行きそびれたのも、全部全部全部。
何もかもあの男のせいだ。そう決め付ける。
「それが嫌なら、俺に文句言ってみな」
東京では面倒ばかり起こったけれど、それより気のあう仲間ができた。
普通に育てたはずなのに、どうしてこう育ったんだろうと義父母はため息をついていた。
勉強はどうせ元からやってなかった。自分が生まれる前から多分館長のヒゲはソバだった。
「関係ないって、偉そうに笑って見せろよ」
三つ編みに結んだ紅の髪を左右に揺らし、風を切って偉そうに歩いて。
悪役らしい、自信を通り越して傲慢な笑い声を高く大きく響かせて。
無骨なその荒れた手で、黄龍の器を力強く抱き寄せてみろ。
「……まあ、無理な話だよねえ」
俺が一ヶ月程前に殺したんだから。
後悔するつもりも、悲しむつもりも全然ないけれど。
他の誰でもなく、自分の手で止めをさすことができた時は心底安堵したものだ。
それほどまでに柳生宗嵩のことが嫌いなのだと、思い出すたび笑みがこぼれる。
縮んだ煙草を灰皿に押し付けて、だから高龍はくっと喉を振るわせた。
「――さーて。そろそろ頑張りますか」
休憩時間はもう終わり。
英語の問題集との、熱い熱い抱擁が待っている。
今までろくに勉強してこなかったから。ただそれだけ。
あの男のせいだとは認めない。関係ない。そしてこれからも。
文句があるなら、生き返ってみろ。
お前なんか知りませんよと、なんでもない風に笑って見せるから。
04.2/7
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