儚い記憶



いつから授業をサボることに何の罪悪感も覚えなくなったのか、もう忘れてしまった。
大学進学のため……将来のためと人は言うけれど。

誰か、馬鹿な俺に教えてくれませんか。


『将来』ってなんですか?


「……どうでもいいことだけどさ」

そもそも世の中に起きる出来事なんて、自分に関係ないと思えば全て関係ないことばかりだ。
逆にいえば、世の中に起こる出来事は全て自分と関係しているわけだけど。
まあそれこそどうでもいいことをだらだらと考えながら、高龍は空に向かってゆっくりと紫煙を吐きだした。
珍しく、抜けるような青い空。
雲は千切れるようにぽつりぽつりとしか浮いていず、陽光がまぶしくて思わず目を細めた。
フェンスを越え、縁に立ったまま高龍はこの場所は特等席だなと思って軽く笑う。
何しろ、目に見えるのは果てしなく広がる空のみなのだ。
下を見れば成る程、庭や生徒達を見受けられるがそんなもの高龍には眼中にない。

ただ、空を見上げるだけだ。

今日はそれほど強くもないが、高い場所だけあって他より冷たい冬の風を全身で感じて。
ふと何かを思いついた高龍は、吸いかけの煙草をくしゃりと二つに折る。


そして、それを思い切り遠くに放り投げた。


軽く弧を描き、空へ上っていったが、やがて力尽きて下へ落ちていく煙草の吸殻。
それだけのことなのに、それはひどく滑稽に見えた。
空を飛べないくせに、空に憧れてる馬鹿な自分みたいで。
届かないもの、手にいれられないものに憧れ続ける自分。
笑ってしまう。

ああ、でも…… 
ぼんやり空を見上げながら考えてみる。

出来なくもないかもしれない。
例えば、今すぐこの無機質なコンクリートを力強く蹴って。
跳んで、空のかわりににひんやりとした冬の空気を掴んで。










そして、落ちていく。










視界いっぱいに青の色に囲まれて。
遊園地では到底味わえない浮遊感と落下感を同時に感じて。
叩きつけられて。
紅に紅に染まる。

手にいれられるのは、抜けるような青の変わりに、鮮烈な紅。
相反した色。
それでも構わない。
あの男のことを考えずにすむのなら安いものだ。


かたり、と何かが音をたてた。
高龍は新しい一本に火をつけながら後ろを振り向く。
そして、苦笑した。

「……本当に、俺が飛び降りると思った?」

扉の側たたずむ紅の男は答えずに、嘲るような笑みをつくっただけだった。
高龍はそれに腹を立てることもなくまた空に顔を向ける。

「残念ながらまだ死ぬ気はないよ。後追い自殺なんて俺の趣味じゃないし。
 それに、京一たちを泣かせることになるからね」

後に残されるだろう人たちのことを考えられる余裕がまだ自分にはある。
覚えていたい人のことを忘れかけていて、それがどうしようもなく寂しくても。

後ろから伸びてきた、赤い生地で包まれた無骨な大きな手。
ばさばさした、手入れの悪い紅の髪。
そういった細かいところは覚えているのに、いざ全体となると思い出せないもどかしさ。
いつでも考えていたいのに、時がたつにつれて失われていく男との記憶。
喪失感。
いっそ全て忘れてしまおうかと考えたこともある。


「でも、駄目なんだよなぁ……忘れることなんて、できやしない……」


引きづっていたい。囚われていたい。いつまでも。
それが既に夢に過ぎないことはわかっているけれど。
手にいれられないものに憧れ続ける自分。


紅に包まれて、高龍は声に出さずに笑った。




















「やっぱりここにいたのか!」
「おお、京一」

派手な音を立てて扉を開けた親友に、高龍はひらひらと手を振って答えた。
やはり手を振りながら、京一はいつものように明るい顔で近寄ってくる。

「よくここにいるってわかったな」
「こーちゃんはサボるときは大概ここにいるからな」
「あーそっか……いわれてみれば」
「それよりよ、こーちゃんどうせ次もサボるんだろ?だったらラーメン食いに行かねえ?」
「……俺は構わないけどさ。お前ちゃんと卒業できんの?」
「うぐっ!…………だ、大丈夫!」
「しっかりしろよ。卒業しなかったらお前置いて一人で中国行くからな」
「心配すんなって……って、中国!?」
「行っちゃ悪いか?」
「いや、いい!すごくいい!いやぁこーちゃん、やっと俺の熱い気持ちを受け止めてくれる気になったんだな!」
「うわ引っ付くな気持ち悪い!」



中国へ行ったら、高龍の両親が死んだ場所を見に行こう。
劉の故郷にも立ち寄ってみたい。
そうすれば《狂星の者》についてまた少し詳しくなって。
あの男のことを全て忘れてしまうその時を遅らせることが出来るかもしれないから。


抱きついてきた京一を引っぺがしながら二人どうでもいいことを言い合って。
去り際に後ろをふりむくと、紅はもうどこにも見えなかった。










(……なんて酷い自己満足)





02.6/20