あなたを初めて抱いた人










      長い時間をかけてようやっと建物のオブジェに彩色を終えると、それで終わらせずに目を寄せて様々な角度から作品の出来を入念に確認する。
      やっと満足のいくものになったとわかって、初めて獏良は筆を置いた。
      イスに背を預けた途端、疲れが一気に押し寄せてきて思わず大きな息を吐く。
      時計を見ると、時間は世にいう丑三つ時すら過ぎている。思ったより時間を使ってしまったらしい。

      疲れた目を解すため、獏良はその器用な手を額に伸ばす。
      視界を閉じて意識を集中させれば、浮かび上がってくるのはとある古代の都。
      家が建っていて出店がぎっしり並んで人が人の合間を縫って歩いて走って笑って騒いで。
      そこは賑やかな町並み。きらびやかな王宮。そして闇の奥には忘れられた地下神殿。

      TRPGにはおあつらえ向きと言わんばかりの舞台。

      脳裏に描かれた街並みと、眼下に広がる偽者の街。目を開いて比べてみる。
      ジオラマの完成には程遠い。それでも昨日と比べれば少しずつ二つは似通ってきていた。

      「……今日は、ここら辺にしとこうかな」

      大きく伸びをしながら呟かれた言葉に、バクラは意識を浮上させた。





      いつ頃からか忘れたが、砂漠に広がる国のイメージが頭の中に広がるようになった。
      例えるなら、テレビで見たエジプトなどの風景に似ているかもしれない。
      どんどん膨らむイメージを放っておくことができなくて、だからそれを形にしようと獏良はジオラマを作っている。最近はこれにかかりきりだ。貫徹することも珍しくない。何故夢中になっているのかわからないが、胸に下げられた千年リングの影響かも知れないと獏良は考えている。
      嘘か本当か知らないが、そいつは自分がエジプトの盗賊だったと主張しているから。
      そいつが住んでいた国に興味を持つのも、当然かもしれないのだと。

      その答えは、半分正解で半分間違っているけれど。



      「ねえ、お前さあ」

      呼びかける声。
      そこに誰もいなくても、聞いている者がいることを獏良は知っている。

      「最近機嫌悪いよね。何かあったの?」

      真っ暗な台所に一つだけ電気をつけて、獏良は冷蔵庫の中を物色しながら言葉を続ける。
      何か作るつもりらしいが、そのついでのように話しかけられたのが気に食わない。
      獏良と同じ造りの、なのに同一人物とは到底思えない姿をかたどってバクラは宿主を睨みつけた。

      「猫を呼ぶような真似すんじゃねえよ、うざってえ」
      「ほら、機嫌悪い」

      身体が透けていてもわかる、ぞっとするような深紅の目。
      何でもない振りを装って、獏良は小鍋に火をつけると真っ白い牛乳を流し入れた。
      温めている間びりびりと包装紙を破り、ぱきぱきとかけらを折って牛乳に溶かす。
      ぐるぐる混ぜれば、鍋の中身はすんなりと柔らかな茶色に変わった。

      (こんなに簡単に、人も変わることができればいいのに)

      何でもない振りを装って、バクラは人を食った笑い顔をつくる。
      人相の悪さも手伝い、下手をすれば本当に食われそうだ。

      「オレの機嫌が悪いとしても、テメエには関係ねえことだよ」
      「……ひどいなあ」

      話はこれで終わり。
      暗にそう言われたことに気づいて、獏良はぽつりと呟いた。
      沸騰し始めたのを見計らい、火を止めて中身をカップに注ぎ込む。
      わずかに泡立ち、温かな湯気を立てるそれを実体の持たない彼の前にことりと置いた途端、甘ったるい匂いが台所中に広がった。

      「あげる」
      「何だ、ソレ」
      「ホットチョコレート。気持ちが落ち着くんだって。多分おいしいよ」
      「チョ……っ、何考えてんだテメエ!誰が飲むかんなくそ甘いモン!」

      しかも多分かよ!
      匂いを嗅ぐだけで身の毛がよだつと、本気で嫌がり後ずさりまでするバクラの様子にしゅんと悲しそうに目を伏せ項垂れるその様は、断言してもいい。演技だ。嘘だ。薄っぺらい見せ掛けの可愛さなのだ。

      「……君のために作ったのに」
      「寝る間を惜しんでまで嫌がらせしてんじゃねえ!」
      「甘いの嫌いだったっけ?」
      「嫌いじゃねーよ!ただ限度っつーもんがあるだろが!絶対飲まねーぞ、オレは!」
      「へー。限度なんて言葉知ってたんだ。初耳」
      「オレ様を馬鹿にしてんのか……?」
      「だって、僕はお前のことを知らないもの」

      獏良の表情は、先ほどとなんら違いはない。
      よほどの事がない限り、いつだって彼は笑うかぼおっとしている。時々ちょっとだけ怒る。
      それでも彼に表情の変化があると思うのは、見る者が勝手に幻想を抱いている時か本人が感情を押し込んでいる時のどちらかだ。

      何があっても飲まない、と固く拒否されたホットチョコレート。沸騰したてだから、持つだけで熱い。息を吹きかけ熱を冷ますと、獏良は一口こくりと飲みこんだ。
      うん、やっぱり甘いね。
      やっぱり笑って、肩をすくめた。

      お前は、僕に何も教えてくれようとしない。
      そう言われたような気がしたのは、自分に負い目があるからか本当にそう言われたからか。

      小さく鼻を鳴らして、馬鹿らしいと浮かんだ思いを一笑に伏せた。




      「天音は落ち着いてくれたんだけど、やっぱり駄目だったか」

      天音。獏良天音。
      その名前を聞いて、バクラはもう一度鼻を鳴らす。
      獏良は、台所を片付けるため彼に背を向けていたから気づかなかった。
      そろそろ本当に寝ようと身を翻したとき、いつの間に近づいたのか。音もなく目の前にバクラが立っていて目を丸くする。
      近すぎる場所に誰かがいる。反射で思わず足を引いて下がろうとした獏良に伸ばされた腕は半瞬の差で追いついた。
      首に絡めた存在しないはずの両腕は、それでも彼の宿主を捉えて離さない。

      「オレ様のこと。知らない、っつったよな」

      鈍く光る深紅の瞳。
      す、と細められるその仕草は獲物を前にした肉食獣を彷彿とさせる。

      「教えて欲しいんだろ?お前にしちゃあ、いーい誘い文句だ」
      「違……っ!?」

      反論しようとした時、強く腕を掴まれ、押し倒された。強く背中を打って息が詰まる。
      痛い、と目を瞑った思った瞬間唐突に理解した。
      「獏良了」を通さなければ物に触れることができない彼が、何故獏良を組み敷くことができたのか。
      恐る恐る目を開けば、ばさりとかかる白い髪。バクラが馬乗りの形で押しかかっている。
      バクラ越しに見上げた天井は、予想通りマンションの台所のものとは大違いだった。


      「さすがに、妹はこんなことしてくれねえよなぁ?ヒャハハッ」
      「ちょっ……待って、待って、ねえ。明日は学校なんだ。もう夜も遅いし、遅刻したら……」
      「関係ねえよ」

      何処とも知れない、白い部屋。ここは獏良の「心の部屋」だという。
      ニヤリと品のない笑みを浮かべながら獏良の無駄な抵抗を難なく受け流すと、バクラは自分のそれで口を塞いだ。
      女より柔らかくはないが、温かい感触。密かに彼のお気に入りなのだ。




















      暗転する世界。

      彼の世界は、酷い程に曖昧だった。
      曖昧な世界を、少年が少しずつ形にしていく。




      砂漠に広がる大きな街。神聖なる王が住まう都。
      今となっては古代と呼ばれる時代、昔の話。そこは世界の中心だった。


      活気と喧騒と、死に満ちた街。若すぎる王が治めた都。
      そこに自分は存在していた。生きて、自分の身体を持っていた。
      しかしと思う。これは本当に、自分の記憶なのか。
      ……あれは本当に、自分なのか?


      二度と忘れることは無いと信じていた、あの惨劇の夜。
      引き裂かれた盗賊村の仲間達。
      口にしたことはないけれど、本当に大切な人たちだったのだ。
      誰が泣いていたのかさえ、もう思い出すことはできないのに。


      懐かしい思い出は、全て月日に風化され色を失ってしまった。
      自分の記憶だということはわかっている。それでも時々自信が失くなった。
      無限に続くと思える闇の中、残されたものは曖昧すぎて。





      何も知らない少年の、器用な指先が最後の舞台を作り上げる。
      偽物の街、もう存在しない場所。それでも都は確かに存在していた。
      少年を通して欲を満たす度、自分が人間であったことを思い出させる。







      知らないだろう、獏良了。
      初めて言葉を交わしたときの(それが自分の声でないとはいえ)、身体に触れることができたときの(それが精神世界とはいえ)オレの喜びを。



      ボタンを引きちぎるように、シャツをはだけさせる性急な動作に抵抗する細い腕。
      揶揄するように笑いながら耳朶を咬むと、面白いように顔を赤くして怒る。
      下肢に手を伸ばせば、決して辛くないわけがないだろうに必死で声を殺して耐えた。
      何かを思い出しそうで、初めて感じるような不思議な感覚。
      はっきりいって気持ちが悪い。それでも止めることができない。生温い心地よさ。
      抗うように貪り尽くす。



      お前は一生わかることはできないだろう。
      ずっと待ち望んできた結末が来ることへの期待。失くしたはずの感覚が戻ってくることへの違和感。確かな喜び。道具に過ぎない無力な少年に抱く矛盾した感情。全てのこと。





      わからなくていい。
      お前はオレの傍にいれば、それで。




      「い……っ!は、あ、ぁ……!」

      無理な挿入に、思わず噛み殺していた声が跳ね上がる。
      熱に浮かされるように、救いを求めて伸ばされた白い腕。
      しばし空をさ迷ったそれは、やがてバクラの背中に回された。
      伝わってくる温もりに少しだけ心が落ち着く。


      この手で天音を何度抱きしめたのだろうとは、考えたくなかった。










      あとバクラは天音のことをどう思ってるんだろう。気になる。

04.8/10