違う、空の下で










      「そうだ、海に行こう」

      なんてどっかの旅行番組みたいな台詞をテレビを見ながら獏良が呟いたけれど、隣で昼食にソーメンをすすっていたバクラはとりあえず腹を満たすのに夢中だったから、ソーメンに下ろし生姜をたっぷりつけながら、いってらっしゃいと適当に返しただけだった。

      「ねえ、それちゃんと聞いて答えてる?」
      「聞いてる聞いてる」
      「本当に行くからね、ついてこないと怒るからね」

      へいへい、とまた適当に返してソーメンをすする。朝夜が肌寒くなってきたこの頃だ、この夏最後のソーメンだと思うと美味さもひとしおである。しゃきしゃきに切ったねぎがいい味を出していて、まず満足の出来だった。
      今のバクラにとっては、海よりねぎのほうがずっと重要な問題なのだ。だから興味がない獏良の言葉は話半分にしか聞いていない。
      大体、夏も終わり秋になったというのに今更海とは何事か。何もないではないか。山に栗拾いに行ったほうが食える土産もできるし、よほど有意義というものである。
      獏良はそんな居候をしばし冷めた目で見ていたが、諦めたようにため息をついた。

      それでその話は終わったのだが、まあまさか本当に行くとはバクラは欠片も思っていなかった。
      しかしいつの間に準備していたのか。ある日徹夜明けの赤い目で部屋から出てきたと思うと専門店顔負けの手づくり浴衣を二着見せ、獏良は色の濃い方を居候に押し付ける。押し付けられても着方なんてさっぱりわからないから、ソファに放り投げたらこの人でなしと罵られた。全くその通りなので反論しようがない。

      「ちっ、面倒くせえ。この格好のままで十分だろ」
      「僕が嫌なの。見たいの。徹夜した意味がないじゃない」

      バクラの目の前で膝を付いて、真面目な顔で彼の体に手を回す獏良。単にバクラの着付けをしているだけだが、これだけ体を密着されると疼くものがある。
      よっぽどこのまま押し倒してやろうと思ったが、獏良は自分が熱中しているときに邪魔されると普段のぼんやりした顔では想像できないほど酷く腹を立てるのでやめておいた。それに、浴衣姿の獏良を見るのもなかなか面白い余興だろう。
      獏良自身も浴衣を着込むと、予想通り普段とは違うしっとりとした風情がよく似合っていた。バッグと三段重ねの重箱を抱え、二人電車に乗り込む。
      9月の浴衣姿、祭も開かれていない。全く季節外れも良いところで、周囲から奇異の目で見られたが今更そんなことを気にする二人ではない。


      一体どこでこんな情報を仕入れたのか、何本も電車を乗り継いで着いた先は人気の全くない砂浜だった。
      降りる人間も獏良たち以外にはいない。
      空を見上げれば、すっかり日が落ちて夜になっている。

      「綺麗なお月様」

      にっこりと満足げに獏良が微笑んで、コンクリートの階段に腰を下ろす。
      バッグの中から花火を取り出して、そのうち一本を立ったままのバクラに差し出した。夏の初めに買っておきながら、結局一度も封を開けなかった代物だ。

      「あんまり遅くまでやれないから、さっさと片しちゃおう。近所迷惑になるといけないから」
      「今更花火ねえ」
      「風流でしょ。お腹がすいたら団子持ってきてるから、月を見ながら食べようね」
      「……なんか、ごっちゃになってねえ?分けるだろうそこは」
      「お得な感じがしていいじゃない」
      「疲れるだけなんですけど」
      「何言ってんの。生きてる証拠だよ」

      何の皮肉だろうか。
      バクラは面倒くさげに右手を伸ばし、首の後ろを掻いた。肌を引っ掻く痛みは生身の体を持つ者のみが知ることの出来る感覚だ。最近になるまですっかり忘れていたが。
      バクラの仕草を、大きな瞳を柔らかく細めて獏良が嬉しそうに見上げている。


      「お前がここにいるうちに、やれることはやっときたいんだ」


      なかなか面白い冗談だった。
      その言葉に一瞬赤い目を見開いたが、すぐにバクラはニヤリと歯を剥き出しにして笑い返す。
      目の前でバクラを見上げている少年と、全く同じ色でと同じ太さをした細い腕。
      しかしバクラが自分の意思のみで動かしている以上、これはバクラのものである。
      鞭のように指をしならせて、獏良の額を弾いた。
      額を弾かれた獏良はきゅっと目を瞑り、肩を竦ませる。不満げに頬を膨らませて見せるが全く怖くないので鼻で笑い飛ばした。

      「痛い」
      「そういうときは、素直にいなくならないでってねだりゃいいんだよ。得意だろそういうの」

      からかうと、諦めたように苦笑で返してくる。同じ顔かたちをしている癖、バクラには絶対真似できない表情だ。
      いいのかなあ、タチの悪い保証書を書かされてるような気がするよと手の内の花火を弄りながら一人で呟いているが、いいも悪いもないだろう。
      足元の砂を踏みにじりながら、バクラが嘲笑う。生まれ育ったはずの地に広がる乾燥した砂とは違い、海辺の砂は大粒で水気に湿っていた。汚れきった夜の空に満天の星は見えないが、体を凍てつかせない心地よい涼しさが気に入っている。
      ふっと獏良が顔を上げて、口を開く。
      囁くように小さな声。この場には二人しかいないのだからそれで十分だった。


      「一緒にいきたい」


      満足げにバクラは頷いて答えた。
      同じ顔かたちをしている癖、獏良には絶対つくることの出来ない表情で。






      「連れてってやるよ」












      海の向うでも。地の果てまでも。
      どこまででも連れていってやろう。傍にいよう。
      エジプトから日本まで、様々な土地を流れてきた。過ごしてきた。
      たどり着くのはどんな場所でも構わない。
      目的ばかり明確で、当てのない旅を続けてきたのは全てこの少年に出会うためだったのだから。

      (だから、お前のためならなんだってしてやる)

      最後に叶えられる、バクラの望みのために。
      同じ色と形をした宿主の指から、花火を受け取るとライターで火をつける。
      七色の光を放ち、はじけては消える火花を眩しそうに眺める彼の横顔を、これでもバクラは愛しいと思っているのだ。心から。










      獏良くんは、居候がいつか自分を置いてどっかへ行ってしまうと思っている。

06.10/1